島で癒されたわけ

癒される

「癒された」という言葉をよく目にするようになった気がするのは気のせいでしょうか。私も時々使います。少し前に訪れた女木島に行った感想を一言で言うと「癒された」です。

瀬戸内国際芸術祭のアート作品以外は、はっきり言って本当に何もない島でした。島の中を歩きましたが、信号もコンビニもありませんでした。瀬戸芸の会期中に訪れたので、芸術祭に来た人はちらほら見かけましたが、車にはほとんど出会いませんでした。車がないってこんなに静かなんだと新鮮な驚きでした。静かなおかげで鳥の声がよく聞こえました。

帰りの船の出発時間が来るまで海岸で時間を過ごしました。高松からフェリーでわずか20分の場所にあるので肉眼で高松のまちが見えます。この島から見ると、高松が大都会のように思えるのが不思議でした。

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海岸に座って、波の音に耳を傾け、寄せてはかえすを繰り返す波を飽きもせずに見ていました。この島にいると時間の流れもゆったりに感じられ、日常では閉じがちな五感が解放されていくように感じました。そして、癒されると感じたのです。

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生きることは基本的には辛い

「癒される」の意味は「辛い思いなどがやわらぎ、穏やかな気分になる」と書かれています。癒されると感じるのは何がしかのストレスを抱えているからこそでしょう。

 

これまで生きてきてわかったことは、生きるということは基本的には辛いということです。SNSに投稿されている多くは、美味しそうな料理の写真であったり、笑顔の写真であったりと、楽しいことであふれているような錯覚に陥りますが、うまくいかないことや、人間関係で嫌な思いをすることは日常茶飯事です。

 

世の中は理不尽なことだらけです。「なんで好き嫌いで評価されるのか?」だったり、「なんで成功したら俺の手柄になり、失敗したらお前のせいになるのか?」だったり。自分のいる場所がたまたま運が悪いのかと思いきや、どこもかしこも同じように理不尽なことがおこっていると知ったのは、勉強会で披露される驚くべき数々のエピソードを聞いたからです。SNSにアップされる楽しそうな様子の裏にそんなこともあるんだなあという現実を知りました。

 

これではストレスも溜まるわけです。そして、そういうストレスは気づかないうちに自分の意識を占有して、モヤモヤする気持ちを抱えながら日々を過ごすことになります。

 

自分と向き合う

このストレスから解放されるためには自分と向き合う必要があります。自分の内面に目を向けて、自分が何をストレスに感じているのか、ストレスを感じないようにするためにはどうなればいいのか、そのために自分ができることは何かと冷静に見極める必要があります。冷静になって自分と向き合うと、気持ちが整理できて解決できることも多いのですが、自分に向き合うこと自体が案外、難しいことに気づきます。

 

自分に向き合うためには、ストレスを抱えている日常を離れた場所が適しています。女木島に行って癒されたと感じたのは、刺激が何もないからこそ、自然と自分の内面に目が向けることができたからでしょう。ストレス社会を生きるためには、時々は、モノがあふれる日常から離れた中に身をおくことが必要ですが、島はそれに最適な場所でした。

 

自分らしく生きる

自分らしく生きたいというのは誰もが願うこと。実際は、理不尽なことにぶちあたったり、「これ、自分じゃなくてもいいよね」と思うことがあったりと、現実はなかなか思うようにはいかないもの。女性活躍推進が声高に叫ばれはするけれど、まだまだ働く女性が組織の中では少数派だったり、男性中心の古い慣習がはびこっていたりと、「働きながら自分らしく生きる」は特に女性にとっては切なる願い。

経営学習研究所の女性3人の理事によって企画され、11月5日(土)の午後に「女性活躍推進にロールモデルはいらない!? ー人生のリーダーシップを発揮してカラフルフロントランナーを目指すー」というイベントが開催されました。定員120名が満席になる盛況ぶりだったのは、このテーマがそれぞれの場所でモヤモヤを抱えながら生きている女性の琴線に触れたからではないでしょか。

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私はテーマもさることながら、勉強会でご一緒している板谷さんが企画したMALLの場づくりに強い関心があって参加しました。参加してわかったMALLが提供しているものを私なりに読み解いてみたいと思います。

 

ゲストスピーカーのインプット

MALLの紹介が終わった後は、多様な経験からキャリアを築いて企業の管理職として活躍する3人の女性ゲストのお話を聞くことからテーマの探求が始まりました。ゲストは、次の3つのフレームに沿って、それぞれのキャリア・ストーリーをお話されました。

  • 印象に残っている出来事
  • 私を変えた出来事
  • 今の私に繋がる出来事

今、企業の管理職になっているというプロフィールを見れば、もともと才能があったり運に恵まれたりした特別な人なんだろうなと思ってしまいがちです。3人から語られたキャリア・ストーリーは、こんな壁にぶちあたった、こんな挫折を味わった、こんな修羅場があったという、辛いエピソードの連続でした。

 

例えば、働く母親にとっての子どもの小1の壁。誰もが働く母親だった保育園から、働く母親ばかりではない小学校に環境が変わって、子どもが不登校になったエピソード。不登校まではいかなくても、何か子どもに問題がおこった時に、自分が働いていることが問題の原因かもしれないという罪の意識にさいなまれた経験をもつ母親は少なくないはずです。

 

例えば、経験のない部門への異動で途方にくれたこと。ほとんどいじめとも言える会議からの閉め出し。何のためにあるのかと疑いたくなるような理不尽な組織のヒエラルキー、などなど。

 

ゲストの具体的なエピソードの数々を聞きながら、参加者がうんうんと大きく何度もうなずいていたのは、それに類する自己の経験を引き出されたからだと想像できます。

 

エピソード自体は決して楽しいものではありませんでしたが、目の前に立ちはだかる問題から逃げずに向き合い、どう考えて、どう行動したのかを語るゲストスピーカーの背筋はぴんと伸び、目には力があり、表情はいきいきとしていました。

 

120名もの参加者とスタッフがいる会場は、ゲストスピーカーの張りのある声に集中してシーンと静まり返っていましたが、エネルギーが満ちているのが感じられました。


アカデミック・リフレクション

ゲストスピーカーのインプットの後は、 浜屋祐子さんからのアカデミック・リフレクションとして、アカデミックな研究結果を紹介してくれました。

 

1. ロールモデルの捉え方

「まるごと参照できるロールモデル」から、多様なモデルから自分で選び取り、「自分なりに構築するロールモデル」へとロールモデルの捉え方は変化してきている。

 

2. リーダーシップの発達を促す場

リーダーシップとは「共通の目標の達成に向けて個人が集団に与えるプロセス」である。リーダーシップ発達を促す機会は、仕事役割における経験のみならず、社会の中で担う様々な役割(家庭、地域、ボランティア、趣味など)の経験にも存在している。

 

ダイアローグ

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そして、いよいよ参加者が主役のダイアローグ。配られたワークシートで自己を省察する観点は、「ポジティブでいられること」「モヤモヤしていること」「ネガティブになること」の3つ。この3つの観点で言語化した後は、同じテーブルの人とのダイアローグ。

 

ダイアローグが始まると、各自の省察の時間の静けさから一転、会場中に内側からあふれ出てくる様々な思いの言葉が渦巻きました。ワイングラスを片手にリラックスして本音で語り、話し手の声に耳を傾け、時には相づちをうち、時には質問を投げかけ、それぞれが自分でも気づかないうちに何かが少しずつ変化していく時間になりました。

 

MALLの場づくり

ここではMALLの場づくりについて考察してみたいと思います。

 

ゲストスピーカーのコーナーをファシリテートしたのは板谷さん。タイトルスライドに合わせたコーディネートと思われるピンクのシャツは、場を明るい雰囲気にしてくれました。勉強会でお会いする時とは別モードのやわらかな語り口は、安心して本音を出せる場をつくり出してくれました。

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何の変哲もない大学の教室を対話の空間に変えるのに一役も二役もかったのが、ワインと上質なお菓子でした。そして、今回のテーマに沿った場のしつらえ。机の上にテープを貼った道がつくられ、ポストイットの形にもこだわりがありました。場のしつらえは、この場ではこういう気持ちになってほしいというメッセージなのだと気づきました。

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プログラムの流れは、人を動かす「Me We Now理論」にもあてはまるように感じました。
Me:  ゲストのインプットトーク(壁にぶちあたったエピソードでゲストと参加者との距離を縮める)

We:  アカデミック・リフレクション(ゲストの話と自分の共通項を見出す視点を提示し、連帯感を作り出す)

Now:  ダイアローグ(参加者自身が内省から自分のポジティブな気持ちを言語化する)

 

ゲストのインプットトークはストーリー・テリングで感情を揺さぶり、アカデミック・リフレクションでは論理で訴え、右脳と左脳の両方に働きかけるのも、インプットの質を高める仕掛けとしてとてもよくできていると思います。

 

よく言われるようにワークショップ系のイベントの最大の変数はなんといっても参加者です。私の後の席に座っていたのは福岡からの参加者でした。名古屋からの参加者もいると聞こえてきました。4,000円の会費によって、今回のテーマに切実な関心をもった人がフィルタリングされて、全国から参加者が集まりました。

 

MALLイベントが提供したもの

最後にMALLイベントが提供したものについて考察してみたいと思います。

 

ダイアローグが終了して会場から去る参加者の顔は、なんだかとても活き活きして見えました。同じテーブルになった人としかダイアローグしていないのですが、おそらくはどのテーブルでもモヤモヤやネガティブなことも語られたはずです。そして、その気持ちの原因となっている事象は、当たり前のことですが、このイベントに参加する前と後では何も変わっていません。それなのに、なぜ、イベントが終わった後の参加者に変化がおきたのでしょうか。

 

白井利明さんが書かれた「希望の心理学」の中にそのヒントがあるように思います。

私たちが絶望しても、なおも人生に何を期待できるのかではなく、反対に、人生が私たちに何を期待しているのかが問われる。

「いかに苦悩から逃れたり、死を避けるか」ではなく、「いかに苦悩や死を含めた全体の中に自分の人生の意味を見出すか」を問うべきだ。

 

参加者は、このイベントのプログラムを通じて、自分の置かれている状況に対しての意味を見出したということではないでしょうか。自分らしく生きることができるようになったとも言い換えられます。

これを図式化すると、こんな感じになるでしょうか。

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人間は意味を問う生き物であると言われます。他者との対話により視点の転換を行い、対話を経てのリフレクションにより意味を構築することによって、辛い現実をいかに乗り越えていくかを自分で考え、行動できるようになるということではないでしょうか。

 

MALLは、学びたいと願う人に学びの場を、変わりたいと願う人に変われる場の提供を目的としているそうですが、まさにその場を提供したといえるでしょう。

 

MALLは、モヤモヤを抱えながら走っている私たちにとっての給水場の役目を果たしているように感じました。MALLで給水して走り出しても、きっとまた、辛くなる時がくるでしょう。でも、次の給水地点まで走り続ければ仲間が走っていることも確認できて、給水することもできます。そう思うと走り続けられる気がするのです。

 

まだ見ぬ景色を求めて

山を登る

瀬戸内国際芸術祭の会場のひとつである本島(HONJIMA)で、笠島町並み保存地区を歩いていると「遠見山展望台まで20分」の看板がありました。展望台からは瀬戸内の島がきれいに見えるに違いないと思い、行ってみることにしました。

町並み保存地区から看板の指し示す方向にしばらく歩くと、けもの道の様相を呈してきました。高く伸びた木々が太陽の光を遮って薄暗く、薄気味悪さを感じずにはいられませんでした。瀬戸芸の作品をめぐるコースからはずれているからか私の他に歩く人はなく、やっぱり引き返そうかと思いましたが、もう少しだけと足を前に進めました。もしこれが曇りや雨の日だったら、引き返していたに違いありません。

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ある箇所では道をふさぐほどに草が生い茂り、本当にこの先に何かあるのかという疑念がわきあがってきて、やっぱり引き返そうかと何度も思いました。

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つい先日、高松市の街中にイノシシが出没したというニュースを聞いたばかりだったので、イノシシにでも遭遇したらどうしようという不安にもかられました。風で草木が揺れてかさかさと音がするたびにビクっとしました。イノシシには遭遇しませんでしたが、へびには遭遇しました。木の枝と間違わずに見つけたので踏まずにすみました。知らずに踏んでいたらと思うとぞっとします。

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この道は本当に展望台に続くのか、どこまで行けばたどり着くのかと不安が渦巻く中を歩き続きけて、ようやくゴールが見えた時には、たどりついた安堵感と果たしてどんな景色が見えるのかという期待の入り混じった気持ちでした。

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登りきって見えた景色

 山を登りきって見えた景色は期待を裏切らない美しさでした。晴れた空の下にくっきりと見える瀬戸大橋とその向こうに見える瀬戸内海に浮かぶ島々。高みにまで登ってきたからこそ見える景色です。

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方向を変えて見ると、さきほどフェリーが到着した港が一望できました。こちらも重なり合って見える島々が瀬戸内の独特の美しさを創り出しています。

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高みから見渡せる景色を見ていると、さっきまでの不安もどこかに吹き飛んでしまって、充実感に満たされました。

 

まだ見ぬ景色を見たい

しばらく景色に見とれた後、再び、来た道をもどりながら、遠見山展望台に登ることは新しいことにチャレンジする仕事と一緒だなあと感じました。

新しいことへのチャレンジは、進めていく中で何がおこるかわからない予測不能性があり、時に不安を感じることもあります。実際、スムーズにことが進むことは少なく、道をふさがれてでしまうような大きな石が目の前に現れて、もう先に進めないからと引き返したくなることも少なくありません。山に登っている時のように、途中の過程では基本的にしんどいことばかりです。

では、なぜ、引き返さずに進もうとするのかと言えば、山を登りきった先、つまりやりきった先に見えるはずのまだ見ぬ景色を見たいからです。この先に何があるのか、どうしてもそれをこの目で見てみたい一心で山を登ります。

 

新しいことにチャレンジするかどうかは、スキルを持っているかどうかの違いではありません。まだ見ぬ景色を見たいという強烈な願望をもっているかどうか。これが新しいことにチャレンジをする人かどうかの分かれ目だと思います。一度、高みからの景色を見た経験をもつと、山を登った先には今までと違う景色が見えることを知って、再び、高みを目指そうとします。

 

未知なるものへの好奇心。それが人をチャレンジへと駆り立てるのです。だから、教育において最も重要なものは好奇心を育むことなのです。

 

ほとんど成りゆきで行くことにした展望台コースでしたが、見えた景色も最高でしたが、人がチャレンジすることのメカニズムも自分なりに解き明かすことができました。

地方転勤

地方に飛ばされた?

私は今年の5月に東京から、ここ香川県高松市に転勤してきました。見知らぬ土地だった高松に住み始めてから約半年。少しずつこの地のことがわかり始めて、高松暮らしにもすっかり慣れました。

昨日、かつて同じ部署で働いていた人が東京から出張で高松にやってきました。私のことを見つけて話しかけてくれました。私が高松に転勤していたことに驚き、直接的な言葉ではなかったけれど、「お気の毒に、東京から地方に飛ばされたんですか?」というニュアンスともとれる表現をされました。

 

地方転勤というと、東京から地方に飛ばされたというイメージがあるのでしょうか。私は東京から地方に追いやられた可哀想な人に見えたのでしょうか。

一方で、いよいよ東京を離れて高松に移動する日、羽田空港からFacebookに投稿した記事には、いつもの何倍もの「いいね!」がつきました。あの「いいね!」はどういう意味だったのでしょう。地方に飛ばされて可哀想という反応ではなかった気がしますが、本当のところはわかりません。

私が地方に転勤したわけ

私は、会社から一方的に転勤を命じられたわけでもありませんし、地方に飛ばされたわけでもありません。私は自ら高松への転勤を希望しました。家族と一緒に東京で暮らしていた私が、縁もゆかりもない高松に、その時点では一度も訪れたことのなかった高松に転勤したいと申し出たので、前職場の上司は驚いていました。

 

同じチームで仕事をしていた同志が、先に高松に転勤することが決まりました。彼女の方が何倍もこの分野で経験を積んでいて、私は彼女からたくさんのことを学んでいました。これからも彼女からの学びを得ながら、チームとして成果をあげていきたいと思っていました。それが、彼女とチームとして仕事ができなくなるという事態が生じたのです。高松転勤が決まった彼女は「これからもチームとして一緒に仕事をしよう」と誘ってくれました。

 

何の迷いもなく私も転勤しようと決めた

 

というわけではありませんでした。転勤するということは、単身赴任をするということでした。初めての単身赴任、見知らぬ土地での暮らしに不安が全くなかったかと言われれば、そんなことはありません。やはりありました。

 

でも、私にとっては、どこで仕事をするかより誰と仕事をするかの方がはるかに大事なことでした。もうひとつ、私は地域をテーマに仕事をしていたので、フィールドに近いところで仕事をした方がいいかもしれないとも思いました。

 

自分の中では、新しい環境に飛び込んでみようという気持ちが徐々に固まってきました。が、もうひとつ、転勤を躊躇する大きな理由がありました。それは、娘の進学問題でした。転勤の可能性がもちあがった時点で、娘の大学入試はまだ終わっていませんでした。もしも娘が浪人することになったら、その状況で離れて暮らすという決断にはなかなか踏み切れませんでした。転勤の可能性が持ち上がっていることも入試が終わるまでは胸にしまっておきました。

国立大学入試の前に私立大学の発表があり、娘からの合格の電話に思わずうるっときてしまいました。うるっときたのは、もちろん、合格したからというだけでなく、これで心おきなく転勤できると思ったからです。「私立の発表なのに、なに泣いてんの?」と言う娘にはわからない大人の事情があったのです。

 

地方での暮らし

こうして、私は高松に転勤してきました。バスの本数が少なかったり、お店が閉まる時間が早かったりはしますが、自分の生活スタイルをこの土地に合わせればいいだけの話で、特に不便は感じていません。

昨日高松に出張に来ていたかつての同僚に、空港に向かうバスについて聞かれたので、およそ1時間に1本の割合と答えると本数の少なさに驚いていました。時刻表なんか見なくても駅に行けばすぐに電車がやってきて乗れる東京からすると、不便極まりないように思えるのでしょう。

私は高松に引っ越してきて無理に生活スタイルを変えたというより、生活スタイルを変えるいい機会になったと思っています。バスの本数が少ないので、歩いて移動する機会が増えて以前よりもはるかに健康になりました。お店が早く閉まるので、買い物をするために会社から早く帰るようになりました。日没の時間が遅かった夏場は、会社帰りに海辺まで足を伸ばして海に沈む夕陽を眺めることができました。同じように鞄を持ったまま海辺に来ている人が何人もいました。

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ちょっとあった嫌なことも海を眺めているうちに自分の中でうまく消化できたり、嬉しいことがあった時は色々なことへの感謝の念を抱きました。何も考えずに海を眺めているつもりが、自然とリフレクションの時間になっていたようです。

 

同じ風景のように思えても、日によって景色の表情は変わります。晴れた日や曇った日の違いはもちろん、雲の形や風のそよぎ具合や波の音の違いで、感じる景色は変わります。何度見ても見飽きないのはそのためです。

 

こんな豊かな時間を過ごせるとは、高松に来る前には想像していませんでした。私は今の生活スタイルが気に入っています。家族と離れて暮らしてはいますが、ネットでいつでもつながれるし、週末に時々東京に帰って家族の近況を確認する二地域居住も悪くないと思っています。尊敬する彼女と一緒のチームで仕事を続けられて、仕事を通じた成長も感じられるし、面白く仕事ができています。

高松での暮らしは気に入っていますが、地方での暮らしの現実を知って驚いたのがこのニュースです。

高松市の中心部にイノシシが現れ、男女3人が襲われて手足を噛まれるなどのけがをしました。体長およそ1メートルのメスで、現場は海に近いことから、瀬戸内海の島から泳いで渡ってきたものと見られています。 

 

鳥獣被害の話はよく耳にしていましたが、まさか街中にまで出没するとは思いませんでした。猪が島から泳いで来たというということにもびっくりです。 

 

色々なことはありますが、瀬戸内の海に癒されながら、しばらくは高松での暮らしを楽しみたいと思います。

瀬戸内国際芸術祭とは何か

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ただいま瀬戸内国際芸術祭2016の秋会期の真っ最中とあって、高松のまちの至るところでポスターや旗が目に飛び込んできます。海外から訪れる人も多いこの芸術祭とは何かを考えてみたいと思います。

 

瀬戸内国際芸術祭を因数分解する

瀬戸内国際芸術祭を因数分解する前に、3年前に慶應SDMの公開講座で聞いた古田秘馬さんの「新しい世界のコンセプトを創造する」という講演のエッセンスを紹介します。

コンセプトとアイデアを混同している人がいるが、この2つは明確に違う。コンセプトは、Whyであり、プロジェクトの本質であり、哲学であり、意味づけである。アイデアは、Howであり、具体的な企画内容であり、演出であり、仕掛けである。

コンセプトとアイデアの関係は、(条件)×(アイデア)/(コンセプト)である。

人が最初に行く理由はコンセプトにあり、人が継続して行く理由はコンテンツ(アイデア)にある。

コンセプトはプロジェクトの大義である。どこに向かうかがコンセプトであり、どの道を通るかがアイデアである。

 

瀬戸内国際芸術祭にこの定義をあてはめて因数分解してみようと思います。

条件は「瀬戸内の島々」

コンセプトは「島が活力をとりもどす」

イデアが「国際芸術祭の開催」

ということになるでしょうか。

 

国際芸術祭を開催すればアート作品を見るためにたくさんの人が訪れると考えて、アイデアだけに目を向けて、アーティストを呼んできて作品を作ってもらって芸術祭を開催しようとしてもきっと上手くいかないでしょう。

 

瀬戸内国際芸術祭で一番大切なことは、島民もアーティストと一緒になって芸術祭に参加することです。アーティストや来島者という外の力を借りて、島民の活力をとりもどすことです。それが島の活力をとりもどすということなのだと思います。

 

島の風景とアートのハーモニー

瀬戸内国際芸術祭の魅力は何といっても、島の風景とアートのハーモニー。美術館の中に展示される作品では表現しきれないものが島の風景の中で活き活きと表現されています。

例えば「カモメの駐車場」。ひとつひとつは単純でもこれだけの数のカモメが並ぶと圧巻です。海に浮かぶ島々を背景にすると本当に絵になるのです。

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それから「20世紀の回想」。船に見立てたピアノから流れる旋律は波の音と呼応するように流れて、なぜこの場所にあるのかをも物語っています。

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これらの作品は前回の瀬戸内国際芸術祭で制作された作品で、芸術祭が開催されていな期間もずっと島に残っています。芸術祭が開催されるたびに島に作品が増えてゆき、アートな島として育っていく仕掛けになっています。島の風景に溶け込むように作られた作品は、芸術祭が開催されていない期間に存在していても違和感がない島の風景になっていくというわけです。瀬戸内国際芸術祭は実によく練られた企画です。

瀬戸芸のBONSAIアートに圧倒された

いざ女木島へ

前日の雨もすっかり止んでいたので、瀬戸内国際芸術祭に行くことに。行き先は女木島。別名、鬼が島。女木島を選んだのは、高松からフェリーで20分と一番近いから。

フェリー出発の30分前に行けば余裕と思ったのが大間違い。切符売り場はすでに長蛇の列。さすが瀬戸芸。

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フェリーに乗って、いざ女木島へ。

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肉眼でも見える女木島にあっという間に到着。

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島で体験したことは書きたいことが多過ぎるので、まずは一番感銘を受けた作品について。

 

feel feel BONSAI

瀬戸内国際芸術祭のWebサイトの写真を見て、全く期待せずに入ることにしたのが "feel feel BONSAI"。いい意味で大きく期待を裏切られることに。

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庭に足を一歩踏み入れた途端、美しい数々の盆栽にすっかり目を奪われることに。

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 部屋に入ると、さらに息をのむような美しさ。これぞ日本美。

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角度を変えてみると、また違った美しさ。

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こんな設えも。

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上の写真の左の木の影が揺らめいているので覗いてみると。。。

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なるほど!アルミ箔に光を当てて影をつくり、扇風機でアルミ箔に風を当てて揺らぎをつくり出していたわけです。

 

盆栽×テクノロジー

そして、思わず見過ごしてしまいそうになりましたが、極めつけの作品がこちら。

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暖簾をくぐると中はこんな様子。自然とスクリーンの真正面に正座することに。

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スクリーンに映し出される瀬戸内の海が時々刻々と変化する光景と盆栽が見事に調和して、身動きもできずに釘付けになりました。

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盆栽×テクノロジーのアートの感動が少しは伝わったでしょうか?実際には、瀬戸内の波が寄せる音がBGMとして静かに流れていて、マインドフルな状態になれます。


瀬戸内アート

このコンテンツなら人口の多い場所で展示すればもっと沢山の人を呼べるのではと思ったりもしましたが、女木島にあるからこそ活きる作品でした。フェリーから降り立った瞬間に感じた島のゆるやかな時間の流れ、瀬戸内の海の穏やかな海の様子を知って見るからこそつくれた作品であり、味わえる作品です。

瀬戸内の文脈に紐づいたアート展示で、この小さな島に人を呼び寄せる瀬戸内国際芸術祭のすごさを思い知りました。 

ブログを始めた理由

Facebookが教えてくれたこと

ついにブログを始めることにしました。Facebookでこと足りていると思っていたけれど、Facebookではもの足りないと教えてくれたのもFacebookでした。


◯年前の今日の記事として、過去にFacebookに書いた記事がしばしば表示されるようになりました。思考を巡らせてそれなりに苦しみながら言語化したものをきれいさっぱり忘れていることに驚きます。と同時に、読み返すことで、さらに考えを深めるのに役立つこともあります。

 

言語化して記録することは重要だけど、蓄積して見返すことも重要だなと教えてくれたのが、過去の今日の記事を表示するFacebookの機能でした。

 

蓄積の価値

過去の今日に書いたものだけでなく、いつでも見返せるようにするためには蓄積型のブログに書いておかないとだめだなと考えるようになりました。自分の思考を一ヶ所にまとめて蓄積して、探し出せるというのは大きな価値です。

 

過去に書いたものを探し出せる以外にも蓄積することの価値はありそうです。ブログを続けることで発見していければと思います。