オンライン化で失われたもの

すっかり日常になった様々な活動のオンライン化。オンライン化で失われたものへの気づきは、意外なところからやってきました。

 

 

舞台鑑賞の体験

少し前に「エゴ・サーチ」の舞台を鑑賞しました。会場に入ると、すべての座席の上に「ごあいさつ」と書かれた用紙がおかれていました。

 

ごあいさつ

 

演出家の鴻上尚史さんがノートに手書きしたもののコピーです。

 

座席について開演を待つ時間、誰もがそれを読みます。

「ごあいさつ」には、鑑賞するお芝居に関する内容や鴻上さんの思いが綴られており、これから始まる物語へと気持ちがいざなわれました。

 

いよいよお芝居が始まると、ひきこまれるストーリー展開に考えさせられたり、じーんと胸が熱くなったり。時々の笑える場面でふっと緊張がゆるんだり。

 

ずいぶん久しぶりにお芝居を見たので、今どきの舞台演出も興味深く味わっているうちに、休憩なしノンストップの2時間があっという間に過ぎました。

 

物語の余韻が残る中で、カーテンコールで主役を演じた俳優さんの挨拶を聞きました。観客の拍手は鳴り止まず、カーテンコールが繰り返されました。鴻上さんが舞台に現れると、一際大きくなった拍手の音が会場に鳴り響きました。

 

私も手が痛くなるほどに拍手をしました。そして、とても満たされた気持ちで席を立ち、会場を後にしました。

 

舞台鑑賞と映画鑑賞

「エゴ・サーチ」を鑑賞した後、少しの日が経ってから、「Coda あいのうた」の映画を鑑賞しました。アカデミー賞作品賞を受賞した映画は申し分なく素晴らしいものでした。

 

 

「エゴ・サーチ」と「Coda あいのうた」

どちらも素晴らしい作品で、作品鑑賞には十分に満足しました。けれども、舞台鑑賞と比べると、映画鑑賞は何かもの足りなさを感じました。もの足りなさの正体は、作品鑑賞の前と後にありました。

 

 

舞台鑑賞と映画鑑賞

 

「エゴ・サーチ」には、作品鑑賞の前に作品導入メッセージの演出がありました。「Coda あいのうた」は、作品鑑賞の前に広告としての予告映像が流れ、いつものように「NO MORE 映画泥棒」のCMも流れました。

 

舞台鑑賞では作品が始まる前から作品鑑賞へと気持ちがつながっていくのに対して、映画鑑賞ではCMを見せられて、気持ちの準備がないままに、突然に作品の世界が始まりました。

 

作品鑑賞の後は、より大きな違いがありました。舞台の場合にはカーテンコールがあり、作品の余韻に浸りながら目の前にいる役者さんに拍手で気持ちを伝えることができます。

 

映画の場合は、エンドロールが流れ終わると、そこで作品世界がプツリと途切れて、現実世界に一気に引き戻されます。作品の余韻に浸る感じが薄いのです。

 

舞台では、鑑賞する前と後にも、ひとつながりの作品世界に浸ることができるのです。作品鑑賞の前後を含めて体験がデザインされています。これが、映画にはない舞台鑑賞の醍醐味でした。特に、作品への称賛としての拍手は、拍手する方にとっても体験価値を高めてくれるものでした。

 

オンライン化で失われたもの

コロナ禍になって、ミーティングやセミナーなど、色々なものがオンライン化されました。便利になった反面、失われたものがあると感じていましたが、その正体はわからないままでした。

 

今にしてようやくわかりました。オンライン化で失われたものは、オンライン上で行われる活動の前と後の体験でした。

 

ミーティングが始まる前の何気ない会話だったり、終わった後に一緒に歩きながら笑いあったり、「じゃあまた」と手を振ったり。そんな前後のささやかなコミュニケーションが失われたのです。そのささやかなコミュニケーションが活動全体の体験価値に彩りを添えてくれていたのです。

 

オンライン化で進化したもの

毎月1回参加している孫子女子勉強会もご多分に漏れずに完全オンライン化に移行しました。その結果、勉強会後にお店に移動しての懇親会の機会は失われましたが、オンライン上で勉強会パート2が行われるようになりました。しかも、終電を気にすることなく日付変更線を超えて尽きない会話を楽しめるようになりました。

 

誰かがミーティングから退出する際には、画面上のみんなが手を振って見送ります。退出する人も手を振りながら、名残惜しそうに画面から消えてゆきます。参加者が1画面に揃ったキャプチャ画面は、楽しい時間を振り返る新たな楽しみになりました。

 

孫子女子勉強会は、総じてオンライン化に適応して進化したと言えます。そうです。だから、この勉強会は長く続いているのです。変化に適応した者が生き残ると言われるように。