老いてはB動機にしたがえ

2020年2月の孫子女子勉強会のテーマは大好物の「学び」。孫子女子勉強会にしては珍しい「老い」も話題にのぼったおかげで、「学び」と「老い」がつながって、人生100年時代の戦い方を手に入れることができました。

 

 

孫子女子勉強会のゆるやかな変化

もう6年以上続いている孫子女子勉強会ですが、原則女子が集まって安全安心な場でホンネで語り合いながら孫子の兵法に学ぶという基本戦略を守りながらも、ゆるやかな変化もおこっています。

 

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      IT新兵器をセットアップする田中先生

 

 昨年から導入されたZoomでの遠隔地参加者とつないでの開催はすっかり定着しましたが、ここにきて、田中先生が次々とIT新兵器を投入し、Zoom会議でのストレスを軽減しています。今回は、田中先生の声のみならず東京の勉強会参加者の声がZoom参加者に届くように、集音マイクが導入されました。Zoom参加者の声が東京会場でよく聞こえるようにと持ち込んだスピーカーはなぜかうまくつながらず今回は導入を断念しましたが、田中先生は童心に帰ったかのように嬉々としてセットアップにいそしんでいました。

 

 業務多忙のため長らく欠席が続いていた仲間の一人が久しぶりにZoomで参加し、Zoom参加者の地域に埼玉が加わりました。

 

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    板谷さんとみっきーと星ノ環いちご

 

 さらに今回は、勉強会メンバーで誰もが仲間と思っていたにも関わらず、なんと初参加だったみっきーが東京会場に来てくれました。新たに作り始めた甘々の苺を持参して。「Zoom参加ってこんな感じなんですね」とZoom参加者の様子が勉強会場からどう見えるかを体験して、「農繁期になったらZoom参加します」ととびきりの笑顔で言ってくれました。

 

テーマは学び

そんなこんなで、いつものようでもあり、ちょっとした新鮮味も加わって、2月の勉強会が始まりました。田中先生から「今日のテーマは学びです」と告げられました。学びたいメンバーが集まっているわけですから、「学び」という大好物のテーマに期待が高まります。

 

「今、この中にいる何人かと一緒に『クラシック音楽史』の講座を受講しているんですが、経済、歴史、絵画に音楽も加わって、それぞれのつながりが見えてくると非常に面白いんですね。義務じゃない学びは本当に面白いんです」

 

 田中先生自身が新しい学びを楽しんでいることから、この日のテーマが「学び」に設定されたのかもしれません。

 

 そして、今回の孫子の兵法の一節はこれでした。

兵を用いるの法は、散地あり、軽地あり、争地あり、交地あり、衢地り、重地あり、ヒ地あり、囲地あり、死地あり。

 

状況に応じた戦い方を心がけよ」の意で、状況判断の大切さを説いたものです。

 

 「いつもと同じ状況、つまり、同じ場所で同じメンバーとばかりいたら、状況判断を学べませんよね」

と、孫子女子勉強会ではすっかりおなじみになった「Dの学び」と「Bの学び」に話題が展開しました。一見無関係に思える孫子の兵法のこの一節と「Bの学び」が実はつながっている、そういう展開の仕方がこの勉強会の他にはない面白さです。

 

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   「Dの学び」と「Bの学び」について解説する田中先生

 

 「Dの学び」は義務から生じ、内側に目を向け、専門的であり、「Bの学び」は興味から生じ、外側に目を向け、交流的であるという解説がありました。孫子女子勉強会では「Dの学び」と「Bの学び」について何度かとりあげられましたし、私も昨年、「Bの学び」について探求したので、復習するような気持ちで聞きました。それでも、色々な学びの蓄積がされてくると、同じものでもまた違った角度から捉えることができるようになります。

 

 孫子女子勉強会で学んできた「学び」と「信頼」と「自信」、これらを同時に眺めてみると、共通するものが浮かび上がってきます。

 

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         「Dの学び」と「Bの学び」

 

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         ニセの信頼と本物の信頼

 

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       「ニセの自信」と「本物の自信」

 もうおわかりですよね。「学び」も「信頼」も「自信」も矢印の始点は自分にあるのです。状況がどうあろうとも、起点は自分にあるのですから自分でできることはあるわけです。

 

 さらに、論語の「小学」「中学」「大学」の違いについて解説がありました。

 

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           小学と中学と大学

 

 解説の後、田中先生の決意ともとれる語りがありました。

長生きするなら若い人のためにならないと意味がないんですよね 

 

老いるとはどういうことか

ここで勉強会が終わってもよさそうなものを、つぶやくように田中先生が言いました。

「昔は、長老は物知りであり尊敬されていたんですよね。つまり、老いることが偉かったんですね。大老、老中、家老のような言葉もあるように」

 

 そして、農業を営む初参加のみっきーに

「農業ではどうですか?」

と問いかけました。

 

 みっきーの答えはこうでした。

「昔は老人は経験的に知っていることが多くて偉かったんですけど、今は農業でもICTを使うようになりましたから、経験がそれほど価値をもたなくなりました

 

 みっきーの答えを聞いて、「そうですよねえ」とみんなで納得したところで、勉強会はちょうどお開きの時間となりました。

 

 今回の勉強会のテーマは「学び」でしたが、私は、勉強会の最後にチラリと登場した「老い」に妙にひっかかりを感じました。誰もがいずれは直面するテーマでありながら、私は向き合うのを避けてきたテーマでもありました。なぜなら、老いと聞いて真っ先に思い浮かぶ単語が「老害」であり、老いに対して良いイメージをもつことができなかったからです。

 

 「老い」にひっかかりを感じながらも特に深堀りすることもなく日々を過ごしていましたが、そのうちに意識から離れないどころか日に日に意識の中に占める割合が大きくなってきました。これは、今回の私にとってのテーマは「老い」なのだと、意を決して向き合うことに決めました。

 

 まずは、かつては老いることが偉かったのに、今はそうでなくなったということを整理しました。

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           老いの意味の変化

 

 要するに、社会の状況が変わったので、それに合わせて老いの意味あいも変わり、老いることが偉かったのは今は昔になってしまったということですね。

 

 さらに考察を深めようとして思い出したのが、「長命の退屈」という衝撃的な言葉でした。この言葉は、1年ほど前に参加したとあるシンポジウムで予防医学者の石川喜樹さんの講演で知りました。この言葉の原典にあたるべく「21世紀への階段」を手にとりました。この初版が発行されたのは1960年、今から60年前のことです。発行当時から40年後にあたる21世紀がどんな社会になっているかを様々な切り口から論じた書籍です。その中のひとつの章が医学の技術進歩に関する章ですが、その章のタイトルが「長命の退屈」だったのです。

 

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       書籍「21世紀への階段」

 

 その章に目を通してみると、「医学の進歩によって寿命が飛躍的に延びて、21世紀の60歳はまだまだ壮年で余生を楽しむには若すぎる時代になっている」と予言しています。この予言が当たっていることを疑う人はいないでしょう。さらにこの本には、寿命が延びた先には「長命の退屈というぜいたくな愚痴が待っている」と書かれています。21世紀の今、実際のところ、「長命の退屈」がおこっているかどうかはわかりませんが、人生100年時代をどう生きるかを手探りしている状態であることは間違いないでしょう。

 

 この本では、人間の寿命延伸に関して、さらにつっこんだ分析を行っています。人間の機能を運動機能と精神機能にわけて、年齢による機能の変化をグラフ化しています。

 

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       年齢による運動機能と精神機能の変化

 

 運動機能は20歳でピークを迎え、その後は下降の一途をたどり、肉体労働の面では60歳では30~40歳代の人と同じような能率をあげることはできないと指摘しています。

 

 その一方で、精神機能のピークは50歳であり、その後はゆるやかに下降していくため、70歳ではピーク時の85%、80歳でもピーク時の70%の能力をもって、活動能力を保持し続けると書かれています。

 

 年齢とともにやってくる運動機能の衰えはグラフで示されるまでもなく自覚してしまうものですが、このグラフを見ると、老いることはひたすらに機能低下を意味するわけでもないと知って勇気づけられます。

 

老いてはB動機にしたがえ

「老い」がマイナスだらけではないと希望がわいてきましたが、プラスの価値にまで昇華するにはまだ何かが足りません。そういう時でも最後のピースをちゃんと拾えるのが孫子女子勉強会です。最後のピースのヒントをくれたのは、ホテルをとって勉强会後の定着会まで参加してくれたみっきーでした。

 

 定着会ではいつものように楽しく盛り上がりました。何を話したかはほとんど忘れてしまいましたが、みっきーのこの言葉だけははっきりと覚えています。

 

板谷さんを見ていたら60代になるのが楽しみになりました!

 

 運動機能はもとより精神機能もゆるやかとはいえ下降段階に入っている60代になるのが楽しみと思わしめる板谷さんは、論語で言うところの人に良い影響を与える「大人」そのものではありませんか。

 

 「老い」を価値に変えるピースはこれしかありません。運動機能は衰えても、精神機能は80歳になってもまだまだ十分にあるわけですから、いくつになっても学び続けて楽しく生きる姿を見せることが後に続く人に希望を与えることになるのではないでしょうか。

 

 「Dの学び」と「Bの学び」の出典はマズローのD動機(欠乏動機)とB動機(成長動機)です。欠乏動機には欠乏を満たすというゴールがあり、ゴール達成で動機は消滅しますが、成長動機にはゴールがなく、動機は際限なく続くといわれています。つまり、B動機の学びに終わりはなく、無限に学び続けられるということです。何歳まで生きても大丈夫です(にっこり)。

 

 みっきーは、知的好奇心を満たしたいというB動機で今回参加してくれました。孫子女子勉強会はまさしくBの学びの場なのです。そして、論語でいうところの「中学」であるのみならず「大学」でもありました。

 

 勉強会が終わった後、田中先生が

この勉強会をあと50年くらい続けよう

と言いましたが、あながち的はずれな話ではありません。何しろB動機に終わりはないのですから、身体が動く限り、誰もが参加し続けるに違いありません。孫子女子勉強会の辞書には「長命の退屈」という言葉はありません。退屈している暇があれば学んでいるのですから。

 

 私が「老い」に向き合うことを避けてきたのは、老いることに希望を見いだせなかったからです。希望を見いだせなかったのは、年を重ねて状況が変わることに対する戦い方を知らなかったからでした。状況が変わったのならば、その状況に応じた生き方をすればいいのです。

 

老いてはB動機にしたがえ

という戦い方を手に入れた今は、もう老いることを怖れることはありません。B動機のままに楽しく学べばいいのです。しかも、それが若い人のためにもなるなんて最高です。孫子女子勉強会が続く限り、B動機に突き動かされて学び続けようと思います。