なぜ女性は自信がもてないのか

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原点にもどった2020年はじめの孫子女子勉強会で、私は長い間囚われていた呪縛から完全に解き放たれました。孫子女子勉強会の意義ここにありという会で、私にとっては忘れられない会になりました。

 

 

孫子女子勉強会、原点にもどる

2019年の孫子女子勉強会は、絵画の話をベースにしたり、ゲスト講師に来ていただいたりと、アレンジを加えた勉強会が続きました。2020年はじめの勉強会は、田中先生が「孫子女子勉強会の原点にもどる」と言われ、先生からの講義インプットの後に参加者がディスカッションするスタイルで進みました。

 

 そもそも孫子の兵法とは、勝つための原則ではなく「不敗の原則」であると、田中先生よりあらためて解説がありました。敵多数の前提で長く生き残るには負けないことを目指すべきと説く孫子の兵法は、社会でおかれた状況を鑑みて女性向きであると田中先生は直感し、そこから始まったのが孫子女子勉強会でした。

 

 今回の勉強会でとりあげたのは、孫子の兵法としてはあまりにも有名なこの二節でした。

 

彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず

 

百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり

 

 「殆うからず」とは負けないの意味であり、勝つとは言っていません。孫子は百戦して百勝することは善でなく、戦わずに負けないことが善であると説いています。

 

 今でこそ「女性活躍」という言葉が飛び交うようになりましたが、男女雇用機会均等法ができたのはわずか34年前のことです。その後も法改正が行わました。つまり、つい最近まで、女性であるというだけの理由で、女性は職場で不当な扱いを受けていたことになります。この状況の中で、いかにして負けないかを孫子の兵法から学ぼうというのがこの勉強会の趣旨です。

 

 単に女性参加者に限定して孫子の兵法について学んでいる勉強会じゃないんです。ましてや女性だけが集まって愚痴を言っている場ではありません。この日は、孫子女子勉強会のおおいなる意義を思い出させてくれた、まさに原点に返った勉強会になりました。

 

 

なぜ女性は自信がもてないのか

この日、田中先生が私たちに提供してくれた材料に、キャティ・ケイ&クレア・シップマン著の

「なぜ女は男と同じように自信をもてないのか?」

からの抜粋がありました。

 

女性に成功する能力がないわけではない。ただ私達は自分が『成功できる』ということを信じていないように見える。それが私たちを、挑戦することからさえも遠ざけてしまう。

 

十分に成熟した21世紀の女性たちは、自分が有能かどうかばかりを心配していないで、自分を信じて行動に移すことをもっと考えたほうがいい。あなたはすでに十分に有能なのだから。

 

 アメリカ政治で活躍し、皆が「きっと自信に満ちあふれているに違いない」と思っている女性が、自己不信に陥っていることを発見し、自信について書かれた著作です。

 

 この材料の提供の後、それぞれが女性だからという理由で苦しんだ経験が共有されました。中には、驚くべき不当な差別的な扱いを受けた話も聞きました。そのような状況の中でも生き残っていくための知恵を求めて集まっているのがこの勉強会のメンバーです。

 

 私も自信がもてなかった経験を思い出しました。

 

 私は子どもを産んだ後も働き続けたいと思い、自分の意思で仕事を続けました。長男が小学校に入学して、学童保育にお世話になっていた時のことです。その頃、私は兵庫県明石市に住んでいて、働く母親はまだ少数派でした。当時の学童保育所は公設民営で、場所はコミュニティセンターの一室を借りて保護者が運営していました。学童保育室にはクーラーがなく、学童保育を一番必要とする夏休みにはなかなかに厳しい状況でした。食中毒予防のため、夏休みに子どもに持たせたお弁当は冷蔵庫に入れることになっていました。

 

 長男は食欲旺盛な子で、小学生になる頃には大人の一人前をぺろりと平らげるほどよく食べていました。また、味覚にとても敏感で、味噌汁などはちょっとでも冷めると味が落ちるといって、できたての食事を好んで食べる子どもでした。そういう子であった長男が冷蔵庫で冷やされたお弁当を口にしなかったとしても不思議ではありません。おにぎりにしてみたり、手を変え品を変え色々なおかずを試してみましたが、来る日も来る日もほとんど食べ残したお弁当箱が返ってきました。

 

 私はせっかくつくったお弁当が食べられないまま返ってくることに苛立ち、子どもはお腹がすいて苛立ち、ぎくしゃくした親子関係が続きました。それならばと、パンとパック牛乳をお弁当代わりにもたせることにしました。その方が冷やしても食べやすかったらしく、それでなんとか乗り切れるかに思えました。

 

 ところが、ある日、長男が学童保育で友達と衝突することが頻繁におきていると、学童保育の指導員から呼び出されました。友達と衝突するのは親の愛情に飢えているからではないかと言われ、さらに、「やっぱりお弁当はお母さんの手作りの方がいい」とのご指摘をいただきました。

 

 手抜きをしたかったわけではなく、冷蔵庫に入れたお弁当は食べないからパンをもたせていたのに、愛情に飢えていると言われ、お弁当をつくらないことを責められ、「じゃあ一体どうすればいいのよ!」と精神的に追い詰められた状態に陥りました。下の子はまだ保育園に通っていて、自転車操業的に日々の生活を送っていた時だったので、時間的にも体力的にも精神的にも余裕がないところに、私が働いていることが諸悪の根源であるかのように思えて苦しみました。

 

 「子どもを育てながら働いて大変ね」や「小さい頃から預けられて子どもが可哀想」という言葉は、それまでにも何度も聞きました。そのたびに「大変かもしれないけれど、私も子どもも可哀想なんかじゃない」と心の中でつぶやいて、聞いた言葉は気にせずに聞き流していました。学童保育の指導員からの言葉を聞いた時は、目の前にいる子どもがSOSのサインを出しているような状態で、それまでのように聞き流してよしとはできませんでした。

 

 一体、自分が何に苦しんでいるのかを知りたくて、図書館で手がかりになりそうな本を必死で探しました。そして一冊の本に出会いました。その本の中に「子どもは母親が自分の手で育てるものという社会からの刷り込みによって、母親は子どもを預けることに罪悪感を抱いてしまう」と書かれていました。この一文で私は自分の苦しみの正体を知りました。私が苦しんでいたのは、学童保育の指導者に子どもが愛情に飢えていると言われたからでもなく、お弁当は母親の手作りがいいと言われたからでもなく、私自身が潜在的に子どもを預けることに罪悪感を感じていたからだったのです。この問題がおきるまではそれに気づかないふりをしていただけで、本当は私が働くことで子どもに犠牲を強いているのかもしれないという罪悪感をずっと抱いていたのです。

 

 私は自分の苦しみの正体が罪悪感であることを知った後に、夫に子どもを預けていることに罪悪感を感じているかを尋ねました。夫の答えは「全く感じていない」でした。私の夫は家事も育児も平等に分担してくれる人でした。出産と授乳以外は同じように子どもを育てて働いてきた夫は罪悪感を全く感じなかったのに、私は罪悪感に苦しんでいたのです。それは社会から女性に刷り込まれた呪縛のせいでした。

 

 ここで、孫子勉強会で学んだ「自信」の話にもどります。私は子どもを育てながら働くことに自信をもっていたつもりでしたが、学童保育での一件をきっかけにその自信を失ってしまいました。それはニセの自信だったからです。つまり、こういうことです。下図のように、私は働きながらでも子どもをうまく育てているという結果に対して自信をもっていたのです。ですから、それが崩れると自信をなくしてしまったわけです。

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          ニセの自信

 

 本物の自信とは、自分の外にある結果とは関係なく、自分の中にもつものなのです。ニセの自信は矢印の始点が自分の外にありますが、本物の自信は矢印の始点が自分にあるのです

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         本物の自信

 

 結果が出ているから自信をもつのではなく、自信をもつから未知のことに挑戦できるのです。私たちはずいぶん長いことニセの自信を自信だと思いこんでいたのだと知りました。ニセの自信を自信だと思い込み、それゆえに結果が出ないと自信がもてないと思い込んでいたのです。そうであれば、やってみる機会を奪われてきた女性が自信をもてないのは当然の帰結です。やってみなければ結果が出るはずがないのですから。

 

 勉強会の中でここまで深く語られたわけではありません。自信にはニセの自信と本物の自信があり、その違いは自信の起点が自分の外にあるか中にあるかだと気づいたのは、このブログを書く段になってからです。

 

 勉強会の中で、田中先生が「昨年の勉強会で、信頼とは信頼される側の問題ではなく、信頼する側の問題だと言いましたよね」と語ってくれたことが大きなヒントになりました。信頼の矢印の始点が信頼する側にあるというイメージが、自信の構図にもあてはまることに気づいたのです。

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 学童保育の一件で、私は働きながら子どもを育てることに自信をなくしました。自信をなくしたことによって、よりいっそう罪悪感に苦しみました。でも、本当は自信をなくす必要なんてなかったんです。自信をなくしたと思ったのは、ニセの自信を自信だと思いこんでいたからだったのです。子どもが成長の過程でつまずくたびに自信をなくしたりせず、自分はできると信じ、子どもを信頼すればよかったのです。20年近く経って、ようやく自分が苦しんでいた呪縛から解放されました。

 

 あれから長い年月が経って、社会人になった長男がたまにランチに誘ってきます。そういう時は仕事の相談がある時です。私は長男の話を聴いて、自分が働いてきた経験からすると自分はこう思うという話をします。それを聞いてどう考えるかどうするかの判断は長男にまかせます。この前、相談を受けた後、長男が言いました。

「仕事の相談を母親にするのはお前くらいだって友達に言われた」

自信をなくす必要なんてなかったことを長男も証明してくれたのです。

 

 

勢いを得る場、孫子女子勉強会

この日、孫子の兵法から別の一節も引用されました。

 

勢いに求めて人に責めず

 

 個々人の力でなく、集団としての勢いを求めるの意です。これを学びに適用するならば、各自で孫子の兵法を学ぶよりも集団で学ぶ方がエネルギーが高まることになります。

 

 私が今回、勉強会から大きな学びを得られたのは、田中先生からのインプットの質の高さはもちろんですが、他の参加者からの生々しい経験談を聞いて、女性であるというだけで謂れのない扱いを受けてきたという怒りのエネルギーを高めたことも大きく影響しています。そして、すっかり忘れていたつもりの自分の体験も思い出したのです。

 

 今回の勉強会で、私は長年の囚われからようやく解放されました。孫子女子勉強会はやはりリベラルアーツを学ぶ場でした。リベラルアーツを学ぶ場は、昨今の大人の学びブームで他にもあるでしょう。孫子女子勉強会を特徴づけるのは、リベラルアーツを学ぶ場にとどまらず、女性である自分たちが不当に扱われている状況への反発をエネルギーに変える場でもあることです。つまり、勢いを得る場でもあるのです。しかも怒りをそのままエネルギーに変えるのではなく、怒りを笑い飛ばしながらエネルギーに変えるのですから、その勢いたるや並大抵ではありません(笑)。

 

 孫子女子勉強会が始まってから6年以上経っても、表面的には同じことを繰り返しているように見えても、飽きることなく学び続けられるのはこういう理由があるからです。