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AIといかに向き合うか

現在は第3AIブームと言われます。AIでこんなことができるようになったというニュースには枚挙にいとまがありません。それと同時に、AIに仕事が奪われるという煽りが付け加えられているのをよく見かけます。

 

そんな中で「コンピュータが小説を書く日」というセンセーショナルなタイトルの本に出会いました。この本を読んでいるタイミングで発売されたHarvard Business Reviewの5月号のテーマが「知性を問う AI時代の『価値』とは何か」だったのは偶然とは思えない巡り合わせでした。

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これらの2冊から、AIといかに向き合うかについて考えてみたいと思います。

 

AIでできるようになったことは何か

「コンピュータが小説を書く日」に書かれているのは、コンピュータを使って作成した小説を星新一賞に応募したことの裏側でおきていた事実が書かれたものです。タイトルだけを見れば、コンピュータがついに小説まで書くようになったのかと、またもやAI vs 人間の対立図を強調されるようなネタのように思えますが、この本の内容はノンフィクションであり、正確な事実と研究者としての鋭い指摘が述べられています。

 

星新一賞に応募した小説をコンピュータがどうやって作成したかをざっくり言うと下記になります。

最初に完成版の小説を人間がつくる

小説を置き換え可能な部品(語、句、節)にばらす

  噛み砕いて言えば、穴埋め部分を埋めれば小説ができるような形にすることです。  

全体の内容の辻褄をあわせるようなパラメータを導入する

  例えば、登場人物に女性が選ばれれば、代名詞には「彼女」が選ばれるなど

穴埋め部分に置き換え可能な部品を適度に用意する

 

乱暴な言い方であることを承知で言うと、実はたったこれだけのことです。穴埋め部分に置き換え可能な部品の組み合わせのバリエーションだけ、新しい小説が書けるという仕組みになっています。

 

コンピュータプログラムが小説を書く様子を画面で見たら、次々に新しい小説を瞬時に書いているように見えます。

 

www.youtube.com

 

これを見れば誰しもが驚くと思います。が、実際のところは、もともとは人間が書いた小説のある部分をあらかじめ用意した部品で置き換えているだけという言い方もできます。

 

もちろん、この方針を思いつくまでに試行錯誤があり、これをコンピュータプログラムとして実装するのには相当なスキルが要求されることは言うまでもありません。が、この事実を知って、作家という職業がAIに奪われるという危機感を抱くでしょうか?

 

この本の著者はこう言っています。

もし「コンピュータが小説を書けた」のであれば、それは「小説を機械的に作る方法(アルゴリズム)がわかった」ということです。賢くなったのは人類であり、機械ではありません。

 

このことは、小説を書いたという分野にとどまらず、「AIで◯◯ができるようになった」と言われているすべての分野について言えることです。AI技術の進歩は機械の進歩ではなく、人類の進歩に他ならないのです。

 

 

AIにはない人間の能力

Harvard Business Reviewの5月号では、4人がAIにはない人間の能力を論じています。極限まで要約してしまえば、それぞれが言っていることはこうなります。

安宅和人さん 知覚(意味を理解すること)

朝井リョウさん 意志(書きたいと思うこと)

前野隆司先生 意識(モノやコトに注意を向ける働きと自己意識)

石黒浩先生 情動(未知のものにどれだけ興味をもてるか)

 

表現は少しずつ違いますが、実はこれらは2つに集約できるように思います。

  1. 知覚 ≒ 意識(モノやコトに注意を向ける働き)
  2. 意志 ≒ 意識(自己意識)≒ 情動

  

さらに、「情動」という言葉はもっと身近な言葉では「好奇心」に置き換えられます。

 

人間もコンピュータも何らかの入力から情報処理を行って出力する装置とみなした場合の違いは、下記の図のように説明ができます。人間の場合の図は、安宅さんの知覚の全体観の図をベースにしています。

 

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          コンピュータの情報処理の場合

 

コンピュータの場合は、何らかの形で記号列に変換したものを入力し、入力された記号列のままアルゴリズムにしたがって処理して、アルゴリズムに書かれた出力を行います。

 

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              人間の情報処理の場合

 

人間の場合は、入力を感覚に翻訳し、対象の意味を理解して処理します。対象の意味を理解することが知覚であり、記号列のままに処理をするコンピュータとは根本的に処理が異なります。また、何を知覚し、どう知覚できるかは経験によると書かれています。元の図には書かれていませんが、どんな経験をするかは意志や好奇心が決定づけ、経験したことがさらに意志や好奇心に影響を与える関係にあると言えます。従って、知覚は間接的には意志や好奇心に依存すると言えます。さらには、何を出力しようとして知覚するかもまた、意志や好奇心に依存するのが人間の特徴です。

 

安宅さんの論文では「知性の核心は知覚にある」というメッセージになっています。このメッセージを拠り所にしてAIと人間を対比してみれば、コンピュータがいかに複雑な処理を高速に行ったとしても、人間が知的に行っていることにははるかに及ばないことがわかります。

 

もう一歩踏み込んで、Harvard Business Reviewの5月号に掲載されている4本の記事を総合すると「人間の核心は意志、好奇心にある」というのが私の解釈です。この解釈を拠り所にしてAIと人間を対比してみれば、コンピュータがいかに複雑な処理を高速に行ったとしても、人間のように知的に新しいものを生み出すことはできないことがわかります。

 

まとめると、今人間が知的に行っていることが完全にAIに置き換わってしまうわけでもなく、今はまだ人間が行っていない新しいことをAIが勝手に生み出すことはないと結論づけられます。少なくとも当分は。

 

この結論からすると、AIに何ら怯える必要はないという結論のようにも見えますが、それだけにとどまらない意味が含まれています。安宅さんの論文の最後の一文にある「『かわいい子には旅をさせよ』はいまも、そして自分に対しても正しいのである」を読んで、旅に出ようと思えるかどうか、実際に旅に出るかどうかは意志や好奇心が大きく影響します。意志や好奇心をもたない人には厳しい現実が待っている社会になったということも暗示されています

 

AIに関する誤解が生まれる理由

ここまでを読めば、必ずしもAIに脅威を感じる必要はないことは明らかです。にも関わらず、AI脅威論の空気が渦巻いているのはなぜでしょうか。

 

「コンピュータが小説を書く日」で2つの理由が示唆されています。

 

理由の1つは、現状のAIでどこまでのことができて、人間のどんな部分は機械化されない価値があるのかについての事実を正しく認識していないことです。事実は「コンピュータが小説を書く日」のようなAI研究者自身が書いた一次情報にあたればわかります。しかし、メディアのフィルタを通ると世の中がひっくり返らんとばかりの技術革新と社会変化がおこっているかのような情報として伝わってきてしまいます。

 

私自身も、膨大なデータを学習するディープラーニングによって第2次AIブームとは違う変化がおこっているような錯覚に陥っていました。冷静に考えてみれば、AIに何をインプットするかもアウトプットとして何が欲しいかも決めているのは人間なのですから、人間が道具として使うという点では第2次ブームの時と何も変わっていません。

 

もう1つの理由は、「コンピュータが小説を書く日」の中で説明されています。

・日本人は「万物に魂が宿る」と考え、物を擬人化するほどにそれほど抵抗がない。

・「コンピュータが判断する」「コンピュータが理解する」「コンピュータが学習する」といった擬人化表現に日常的に接していると、擬人化の意識が薄れて違和感なく受け入れるようになり、コンピュータがあたかも人間のようなものとして認識されるようになるのではないか。

・ロボットのように体をもつと、もっとやっかいになる。

 

これは確かに言われてみればそうです。他の物に比べて、コンピュータに対しては擬人化表現を使うことが多いような気がします。私たちは自ら、コンピュータが人間の代替になるものであると暗示をかけているようなものです。

 

いずれにしても、事実を正しく認識することの大切さを痛感します。

 

AIといかに向きあうか

第3次AIブームの過熱したAI熱が冷めたとしても、引き続きAIの技術開発は進むことでしょう。AIといかに向き合うかを考えるには、次の3つが前提になるでしょう。

1. AIで何がどこまでできるのかの事実を正しく知る

2. AIは人間に敵対するものとして恐れる必要はない

3. AIは取るに足らないものとして無視するのは得策ではない

 

この3つの前提に立った上で、AIに対してとるべき戦略は、生産性をあげるために、より高い価値を生み出すためにAIをいかに活用するかということに尽きるのではないでしょうか。実際、Harvard Business Reviewの5月号の中で、作家である朝井リョウさんはインタビュー記事の中でこう言っています。

小説のキャラクターの名前は「名前生成ソフト」で決めていて、自分ではほぼ考えていません。キャラクターの名前を決めることに、作家としての僕の独自性や創造性を発揮する必要がないと思っているからです。

 

膨大なデータの中からある条件にマッチしたものを探してくるようなことは、明らかに人間よりもコンピュータの方が得意です。コンピュータが得意なことはコンピュータに任せて、人間にしかできない部分で人間の能力を発揮した方がよくないでしょうか。折しも、働き方改革という名のもとに生産性の向上が叫ばれているのですから、AIも道具として使い、生産性の向上を目指せばいいと思います。ただし、道具は使い方によっては諸刃の剣になります。AIを使うにも人間の知性が試されます。

 

「ひと仕事を成し遂げた人の講演+野中郁次郎先生のコメント」がセットになった講演会を何度か聴講したことがあります。野中先生のコメントの最後はいつも「最後は生き方だ」であり、とりわけその部分に力をこめられていました。その時はぼんやりとしかわかりませんでしたが、そこに何か重要な意味があると直感して「最後は生き方」の言葉はいつもメモ書きしていました。今回、AIといかに向き合うかを考えてみて、ようやくその意味がクリアになりました。

 

大量のデータが蓄積され、AIの技術が進歩し、AIを道具として使うことが前提の社会が目前に迫っています。社会を前に進めるためにAIを道具としてうまく使えるかどうかは人間の知性に依存します。人間がAIと共存しながら知的なふるまいができるかどうかは人間の意志や好奇心にかかっています。AIと共存する社会とは、人間の意志や好奇心がクローズアップされる社会だと言えるでしょう。

 

AIといかに向き合うかを問うことは、自分の意志や好奇心を問うこと、言い換えれば自分の生き方を問うことに他ならないというのが私の結論です。