Bモードを錆びつかせないための孫子女子勉強会

9月の孫子女子勉強会が開催されたのは、最大級の警戒が必要と言われた台風15号の影響で首都圏の交通網が麻痺した9月9日のことでした。台風で混乱した駅の様子を見た田中先生がこの日の勉強会に用意してくれたテーマのおかげで、私達が孫子女子勉強会を必要としているワケがまたひとつ明らかになりました。

 

 

不利を有利に変える

この日のレジュメに書かれた孫子の兵法の一節はこれでした。

「軍争の難きは、迂をもって直となし、患をもって利となすにあり」

 

 「遠回りに見えても実際には近道を行き、不利を有利に変えるところが難しい」という意味であり、これらが難しいということは、裏をかえせば、不利を有利に変えることに勝機ありということです。

 

 台風通過後の運転見合わせや駅への立ち入り禁止といった不利な状況を当日に経験した私達にとって、まさにドンピシャなテーマでした。

 

 この日は、いつ乗れるともわからない電車を待って駅でひたすら待つのではなく、在宅勤務に切り替えた仲間が多かったようです。在宅勤務に切り替えたメンバーは、突然の打ち合わせに呼ばれることもなく、したがって開始時刻に遅れることなく自宅から勉強会に参加していました。要するに、不利を有利に変えた好事例でもあったわけです。

 

 私はどうかというと、ここ数回は遅刻なく参加していたにも関わらず、この日に限って20分ほど遅刻してしまいました。不利を有利に変えられなかったのかというと、そういうわけではなく、不利を有利に変えたがための遅刻でした。

 

 この日、私は、午後からの所用のため、午後休暇をとることにしていました。朝起きたら、通勤電車が運転見合わせで再開の見込みは立たずの状態でした。迂回経路を調べてみると、間引き運転をしていて、平常時を超える異常な混雑ぶりであることがわかりました。殺人的に混雑した電車に乗って会社に向かうことをそうそうにあきらめて、1日休暇に切り替えました。

 

 午後からの所用の場所に向かう経路を調べてみると、そこに向かうのもこれまた難問でした。最寄り駅からの乗車はあきらめて他の路線がある駅まで徒歩で行くことを決め、午前中のうちに家を出発しました。歩き始めてバス停を通りすぎようとしたところに、たまたま目的の駅に向かうバスが来たので、とっさの判断で飛び乗りました。私が乗った時にはすでにバスも満員状態で、次のバス停からはバス停で待っていた人に「次のバスをお待ちください」とアナウンスして乗車ができないほどでした。道路工事の影響もあって、バスが目的の駅につくまでには予想以上に時間がかかってしまいましたが、それでも台風一過の高気温の中を歩くよりはバス移動の方が楽でした。到着した駅では、間引き運転はされていたものの、その駅が始発の電車に乗れたので、座って移動できました。そこからさらに電車を乗り継いで、予定時刻ぎりぎりに所用の場所にたどりつきました。

 

 所用をすませた後は、勉強会まで少し時間があったので、森美術館で開催されていた「塩田千春展:魂がふるえる」と「PIXARのひみつ展」に足を運んで、たっぷり楽しみました。塩田千春展は休日であれば相当混雑しているらしいとのことだったの、平日にゆっくり鑑賞できてラッキーでした。勉強会への参加が遅れたのは、作品鑑賞に没入して時間が過ぎるのを忘れてしまっていたためです。

 

 電車が動かないという不利な状況でしたが、午前中に休みをとって早めに移動したおかげで所用を予定通りの時間にすませられ、平日にゆっくりと美術館鑑賞をすることができました。遅れはしたものの勉強会にも参加できて、まさにその日の自分の経験と照らし合わせて、勉強会のテーマを実感をもって考えることができました。

 

不利を有利に変えるBモード

「不利を有利に変える」というテーマを掘り下げるトピックは、孫子女子勉強会では「どういう人が不利を有利に変えられるか」になります。間違っても「どうやって不利を有利に変えるか」にはなりません。なぜなら、不利な状況は千差万別で、どうすればよいかは状況次第としか言いようがないからです。

 

 どういう人が不利を有利に変えられるかに対する答えは、孫子女子勉強会の根幹をなすと言ってもいい「Bモード(面白がる)」です。不利を有利に変えるのは、起こっている事象そのものを変えることではありません。その事象の捉え方を変えることです。例えば、乗るはずの電車が動かないという事象があれば、なんとしても電車に乗ろうとするのではなく、電車に乗らなくても良くなったら何ができるかと考えることです。電車に乗って出社しなければいけないという前提をはずしたら、今までとは違った景色が見えるはずです。今まで見たことのない景色に出会えるわけですから、面白くなってきます。不利な状況だと思っていたことが、実は、新しい景色を見せてくれるきっかけになるわけです。

 

 こうすべき、こうしなければならないという枠に囚われている限り、新しい景色には出会えません。こうすべき、こうしなければならないという枠は、実際にはほとんどありません。自分でそういう枠をはめているだけのことがほとんどです。そういう枠をとっぱらった先には、見たことのない景色が待っています。

 

 不利を有利に変えると言うと、とても難しいことのように思えますが、たったこれだけのことです。特別な道具もスキルも必要ありません。自分の視点を変えるだけです。

 

 6年目に入った孫子女子勉強会では、不利を有利に変えるマインドと実践が根付きつつあります。

 

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     不利な地からZoomで参加する孫子女子達

 

 勉強会は東京の貸し会議室で行われます。東京に住んでいない人にとっては、東京開催の勉強会は不利とも言えます。が、アメリカや大阪、福岡に住む仲間は、東京にいなければ参加できないという枠をいとも簡単にはずして、毎回、Zoomで参加しています。

 

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              会議室でお抹茶を点てる越後屋さんと淹れたてのお抹茶 

 

 孫子女子勉強会はその名の通り、勉強会の参加資格は原則女性です。けれども、例外的に越後屋さんは男性でありながら、勉強会メンバーの一人になっています。女性参加者に混じって男性が参加するのは不利な状況かもしれません(実際には誰もそうは思ってないけれど)。そんな不利な状況を「越後屋さんがメンバーでいてくれて良かった」と有利な状況に変えてしまう気遣いができるのが越後屋さんの素晴らしいところです。例えば、今回の勉強会ではこんな嬉しい気遣いがありました。一人離れて後ろのテーブルに座っていた越後屋さんが、勉強会の途中で何やらガサコソし始めました。何かなと思って振り返ってみると、なんと参加者全員にお抹茶を点ててくれていたのです。貸し会議室で淹れたてのお抹茶をいただけるなんて誰が想像したでしょうか。Zoom越しの仲間も含めて参加者全員が、「越後屋さんが仲間でいてくれて良かった」と思ったことは言うまでもありません。

 

Bモードを錆びつかせないための孫子女子勉強会

こんな風に、孫子女子勉強会メンバーはすでに不利を有利に変えるBモードで生きています。だったら、もう勉強会は必要ないんじゃない?と思うところですが、Bモードを錆びつかせないためにはメンテナンスが必要だと気づかせてくれたのは、沖縄在住の参加者でした。

 

 最近、新しい事業をおこされた沖縄在住のOさんは、東京出張ついでに久しぶりに勉強会に参加してくれました。そして、勉強会参加の後、こんなコメントをくれました。

こうでなきゃ!とガチガチに固まりつつあった頭が、みなさんのおかげでだいぶ柔らかくなりました」

 

 おそらく人間は、自らがBモードであるかを常に自問していないと、いともたやすくDモード(ねばならない)になってしまうのだと思います。Bモードを錆びつかせないためには、定期的なメンテナンスが必要なのです。

 

 孫子女子勉強会は、私達がBモードであり続けるためのメンテナンスの場であったというわけです。私達はBモードで生きることの面白さを知ってしまったがゆえに、もうBモードであることを手放したくないと思っています。けれども、メンテナンスなしにはBモードであり続けることはできません。ですから、今月も来月も、そのまた次の月も孫子女子勉強会の場に足を運び続けるのです。そして、これからもずっと、どんな不利な状況に遭遇しようとも、Bモードで面白く生きていこうと思います。

異文化に身をおくということ

アメリカ人男性と結婚してカルフォルニア州に住む友人を訪ねたのは、かれこれ4ヶ月ほど前のことでした。私がアメリカに足を踏み入れたのはこの時が初めてでした。友人の家を訪ね、いくつかの観光地をめぐる旅を一緒にしました。アメリカ旅行で得られたのは異文化と出会うことの衝撃でした。

 

 

地理的条件とマインドセット

アメリカ旅行の行き先は、友人とメールでやりとりしながら決めました。アメリカで行きたいところを聞かれましたが、特に思いつかず、世界の行きたいところリストを作っているらしい娘に聞いて返ってきたのが「アンテロープキャニオン」でした。その時、初めて、アンテロープキャニオンのことを知りました。ネットでアンテロープキャニオンを調べて、ここに行くことをはじめに決めました。それならばと友人が案を出してくれて、ラスベガス空港からレンタカーを借りて3つの国立公園とアンテロープキャニオンをめぐる旅のプランが決まりました。

 

  • ラスベガス空港→ウィリアムズへ移動(ウィリアムズ泊)
  • グランドキャニオンサウスリム観光
  • グランドキャニオン → ペイジへ移動(ペイジ泊)
  • アンテロープキャニオン、ホースシューベント観光
  • ホースシューベント → パンギッチへ移動(パンギッチ泊)
  • ブライスキャニオン観光
  • ブライスキャニオン → トカーヴィルへ移動(トカーヴィル泊)
  • ザイオン観光
  • ザイオン → ラスベガスへ移動(ラスベガス泊)

 

 グランドキャニオン、ブライスキャニオン、ザイオンは、行くまでに想像していたものとはかけ離れたスケールの大きさに圧倒されました。

 

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                       グランドキャニオン国立公園

 

 グランドキャニオンは言うまでもなくアメリカを代表する国立公園で、何度も写真で見たことがありましたが、写真で見たものとは同じでもあり全く違ってもいました。確かに、カメラレンズのフレームにおさまる部分を切り取ってみれば、写真で見た通りなのですが、その壮大なスケールはその地に立ってみないとわからないものでした。何しろ、深さは約1.2kmもあり、長さにいたっては約450kmにも及んで東京から京都までの距離に相当するというのですから。

 

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      ブライスキャニオン国立公園

 

 ブライスキャニオンは、海抜2,400~2,700mの地にあります。私達が訪れた日は小雨まじりの日で、ブライスキャニオンに到着した時は、5月だというのになんと雪が降り始めました。アメリカの国土の広さは十分に実感していましたが、水平方向だけでなく垂直方向にも広大な広がりがあることを知りました。ブライスキャニオンにはビューポイントがいくつかありますが、ビューポイント間の距離が離れ過ぎていて、多くの観光客と同様に私達も次のビューポイントへは車で移動しました。つまり、日本でいうところの歩いてめぐる公園のイメージとは程遠く、公園には壮大な敷地が広がっているわけです。

 

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       ザイオン国立公園

 

 ザイオン国立公園も観光スポットが点在しています。公園内は自家用車の乗り入れ禁止で、スポット間はシャトルバスで移動します。こちらも公園と呼ぶには広すぎて、およそ園内を歩いて移動できるものではありません。

 

 この3つの国立公園の魅力はその壮大な景観にありますが、そのスケール感はとてもカメラではおさめきれませんでした。果てしなく広がる光景を前にした時の感覚はその地に身をおく以外にはわからないものでした。

 

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      アンテロープキャニオン 

 

 アンテロープキャニオンは、流線美の岩肌にわずかな隙間から差し込む光が幻想的な雰囲気をつくりだし、息をのむような美しい峡谷でした。その曲線美を作り出したのは鉄砲水とのことで、ここでもやはり自然のスケールの大きさを感じました。

 

 アンテロープキャニオン観光については、もうひとつアメリカの広大さを実感したできごとがありました。アンテロープキャニオンの観光は、ツアー参加が必須となっており、私達は朝8時からのツアーに予約をしていました。宿泊したペイジからGoogleマップを頼りにツアーガイドとの待ち合わせ場所に向かいました。距離的にはおよそ車で40分ほど走った場所だったので、7時過ぎに宿泊したAirbnbの家を出ました。Googleマップ上には到着予定時刻がなぜか8時50分と表示されています。1時間もかからない場所のはずなので、何かの間違いかと思っていました。ツアーガイドと会話している中でこの謎が解けました。ペイジとアンテロープキャニオンの場所とは時差が1時間あったのです。アメリカ国内を車で走っていて、ある地点を通過した瞬間に時刻が1時間進むという経験をしたわけです。ひとつの国の中で時差が存在するほどに国土が広かったのです。

 

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       アメリカの国道 

 

 アメリカ国土の広さを最も感じたのは、国立公園の地に立った時よりも国内時差を体験したことよりも、次の観光地へ向かって車を走らせている時でした。360度の視界が広がる中に1本の道が通っていて、走っても走っても同じ景色が延々と続き、気持ちまでスケールが大きくなるようでした。そういう景色を見ていると、どんなこともささいなことのような気がして、なんとかなるさという気分になってきました。この時初めて、地理的な条件が人間のマインド形成に与える影響の大きさを知りました。

 

 アメリカの国土が日本の何倍もの大きさであることは地図を見れば明らかで、知識としては知っていました。けれども、広い国土の中で暮らすことがどういう意味をもつのかは行ってみるまではわかりませんでした。アメリカ人が小さいことを気にせず、よく言えばおおらか、悪く言えば大雑把でアバウトになるのはこの国土の広さゆえなのだとその地に行って初めてわかったのです。

 

治安が良いということ

日本は治安が良いと言われます。けれども治安が良いということが具体的にどういうことなのかはアメリカに行って初めてわかりました。

 

 米国在住の友人の2人のお嬢さんは、家から離れた地に住んで仕事をしています。「2人の子どもが家を出てしまって寂しいですか?」と友人の夫に尋ねました。返ってきた答えはこうでした。

「寂しくはない。アメリカでは、妊娠やドラッグ、就職の問題があるが、娘たちがそれらの問題を抱えることなく育ってくれて幸せだ」

 

 日本でも子育てに心配はつきものですが、その心配ごとの中にドラッグが含まれることはめったにありません。アメリカ社会にドラッグが深く浸透していることをこの返答から知りました。

 

 友人宅を訪ねた後、サンフランシスコ空港からラスベガス空港まで国内線で移動しました。国内での移動にも関わらず、空港でのセキュリティチェックの厳しさに驚きました。保安検査場を通過する際には、靴も脱ぐ必要がありました。早朝で気温が低かったため上着を重ね着していた友人は、重ねていた上着も脱ぐように指示されました。上着を脱ぐ必要があった理由を友人に尋ねると、「上着の中に銃を隠し持っているケースがあるからよ」という返事でした。友人との会話の中に銃という言葉が出てくるとは全く予想もしていなかったので、何よりもそのことに驚きました。

 

 ブライスキャニオンからその日の宿泊先に移動中のことでした。それまでつながっていたWiFiがなぜかつながらなくなりました。Googleマップを頼りに移動していましたし、Airbnbの宿泊先に連絡して鍵の受け取り方を確認する必要もあったので、WiFiがつながらないことは死活問題でした。道路沿いにあった大きめのショップの駐車場に車を泊めて、どうにかしてWiFi接続を復活させようということになりました。少し時間がかかりそうだったので、一人の友人はショップでおみやげを見に行くことになりました。ほどなくしてWiFiは復活しましたが、友人は車に戻ってきません。私が店の中を一周して探しましたが見つかりません。見つからなかったことを車で待っていたアメリカ在住の友人に告げると、よくあることのように「拉致られたかな」という言葉が返ってきました。日本で人が見つからない場合にその理由として「拉致された」と考えることはまずありません。ですから、その言葉がごく自然に出てきたことに驚くとともに、日本がいかに安全な国かを知りました。

 

 銃とドラッグが日常生活に浸透していない社会であることがどれほど安心感をもたらすことかは、そうではない社会に身をおいてみたからこそわかったことでした。

 

カルチャーを知る

友人宅から旅行に出かける時、空港まで友人の夫が車で送ってくれました。送ってくれた夫が車で家に戻ろうとする前に、友人夫妻はごく自然にハグをかわしていました。旅立つ家族を見送る時にハグで見送る光景は日本ではなかなか見かけません。私が米国に滞在していた間に友人と夫がハグをしているのを見たのはこの時だけでした。アメリカでは挨拶代わりにハグすることを知っていましたが、どういう場面でハグをするのかは、そこに身をおいてみないとわかりませんでした。

 

 アメリカ滞在中に日本独自のカルチャーを知ることにもなりました。私達は驚いた時、知らなかったことに遭遇した時に「えーっ!」という言葉をごく自然に発します。それは当たり前過ぎて、自分がそういう言葉を発していることにすら気づきませんでした。日本のテレビで「えーっ!」と何度も言っているのを見た友人の夫が、日本人は「えーっ!」をよく発することを発見したそうです。なので、私達が友人宅で「えーっ!」を発するたびに、友人の夫が面白がって真似ました。その時、初めて、日本人が「えーっ!」を頻発していることに気づきました。

 

 もうひとつ、日本のカルチャーとして面白がられたことが、自分のことを指差す時に人差し指で鼻の頭を指すことです。これも言われてみるまで全く気づきませんでしたが、よくよく考えてみれば、なぜ鼻の頭を指差すのかわかりませんし、不思議な行為でもあります。これが不思議な行為であるということは日本に住んでいたらわかりませんでした。誰もがそうしていて、それが普通だと思いこんでいるからです。異なるカルチャーをもつ人との交わりがなければ、日本のカルチャーに決して気づくことはできませんでした。

 

異文化に身をおくということ

地理的条件がマインド形成に影響を与えること、治安が良いとはどういうことか、自国のカルチャーが何かを知ったことが、アメリカ旅行で得られた大きな収穫でした。これらは、ネットがどれだけ発達して他国の情報をたやすく入手できるようになったとしても日本にいては知り得ないことでした。異国の地に実際に身をおいてみたからこそわかったことでした。

 

 自国の中にいると、自国の独自性がどこにあるのかはなかなかわからないものです。外から自国を見る目に触れて、初めて自国のことが見えてきます。同じ環境にだけ身をおいていては見えないものがあることは心に留めておかねばなりません。

 

 異文化に身をおくことは、単にその文化を経験することにとどまりません。その経験によって、今まで見ていたものを新たな見方で捉えたり、想像する力の幅を広げて世界を見る視座を一段上げたりと、世界の見方をアップデートすることができます。人間は気づかないうちに、自分が経験した範囲、つまり自国のカルチャーを基準にしてものごとを理解するバイアスにとらわれてしまいます。異文化に身をおくことは、自分がもっているバイアスに気づかせてくれる絶好の機会になるのです。

やめられないとまらない孫子女子勉強会

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7月の孫子女子勉強会は、孫子の兵法の第一人者である守屋淳先生をゲスト講師に迎えての特別講義の会。今回はどんな学びがあるだろうと楽しみにしながら、都内での打ち合わせを終えた後に会場に向かいました。この日のZoom参加者は途中抜けの人もいましたが最大で5人、接続地域は4箇所と、Zoomでつなぐ勉強会もすっかり定着しました。勉強会記録を書こうとしたら、またしても孫子女子勉強会の不思議に迫ることになりました。

 

 

将軍の条件

守屋先生が勉強会にご用意くださったテーマは「孫子の将軍の条件」。『孫子』の始計篇には、将軍の条件は「智謀」「信義」「仁慈」「勇気」「威厳」の5つであると書かれています。

 

 それぞれの意味の簡単な解説の後、守屋先生からの問いかけで、このうちで自分に足りないと思うものを一つだけ選んで答えることを順番に一人ずつ行いました。もちろん、Zoom参加者も含めてです。自分にとってはどうかと考えることで、5つの要素への理解が否応なく深まりました。

 

 智と勇、仁と厳は、対極的な要素であり、どちらか片方を持っていれば片方が欠けてしまうことが多いそうです。また、信は他人との関係で成り立つもので、他の4つの要素が備わっていても、信は備え難く、これら5つの要素をすべて持ち得ることは難しいそうです。良きリーダーとは、これら対極的な要素をバランスよく持ち、「決断力に富みながら、思慮深い」というように、その場その場で必要な要素を臨機応変に活かしていくものとされています。はるか昔からリーダー論が論じられるほどに、リーダーとは求められながらも、リーダーになるのが難しいものであることが伝わってきます。

 

人との関係の築き方

続いて、組織を率いる際の将軍の「仁と厳」の使い分けに話が進みます。孫子でいうところの組織は戦時の組織ですから、将軍がいかにして兵士を動かすかが論じられています。その要諦は、仁(やさしさ)と厳(厳しさ)のバランスであり、はじめに仁ありきというのが孫子の教えです。

 

 さらに、「史記」「三国志」「戦後策」からの引用を用いて、将軍が兵士から強い信服を得る方法を学びました。

許されないことを許してくれたと兵士が感じた時

守りにくい約束を守ってくれたと兵士が感じた時

あの人だけは自分のことをわかってくれたと兵士が感じた時

  

 「仁と厳」の使い分けも信服を得る方法も、人との関係の築き方のことです。十分な関係ができていないのに、厳しい条件だけを課しても相手が受け入れることはない。まずはこちらが敬意をもった態度を示して相手の心をつかまなければいけない。当たり前にしてなかなか実行が難しいことを教えてくれます。

 

 いずれの時代も、いかに相手との関係を築くかは最重要命題です。そして、時代が変わっても人間の心理はそう大きくは変わらないので、古典から学べることは多いのです。

 

やめられないとまらない孫子女子勉強会

守屋先生から、一通りの講義が終わった後は、たっぷりのフリートークの時間になりました。守屋先生の講義内容を起点として、それぞれの問題意識や知り得た知識や経験を場に提供しながら、縦横無尽なテーマでのフリートークが進みました。

 

 アイデンティティに話題が及んだ時には、こんな言葉が飛び出して、いかに日常ではアイデンティティについて考えていないかにハッとさせられました。

アメリカ人は、多民族国家であるがゆえに、毎日、自分のアイデンティティについて考えている。

日本人は、思春期と退職の時にしか自分が何者かを考えない

  

 また、師匠に話題が及んだ時には、こんな言葉が共有されました。

いい師匠になるには、いい師匠をもつこと。

いい師匠に出会うには、いい問いを持っていること。

 

 出会いは縁と言われますが、その縁を引き寄せるのは、いい問いを持つという自分次第でもあるということです。学びも同じく、いい学びをできるかは、いい問いを持っているかどうかに大きく影響します。この勉強会でも、同じ場に参加していても、それぞれがもっている問いの違いによって、学んだものは違うはずです。

 

 この日のフリートークで、私が一番強く印象づけられた言葉はこれでした。

好奇心は欲求。食欲や睡眠欲と同じ。だから、教えることはできない

 

 智(学び)と勇(行動)を起動する源は好奇心にあることは、誰もがうっすらとでも気づいています。この好奇心をどうやって育てられるかに関心が集まっていますが、それは欲求であり、教えることができないものだったのです。

 

 好奇心が欲求であるならば、人が生まれた時からあらかじめプログラムされているものと考えられます。それにも関わらず、好奇心を育てなければならないということは、意識的にせよ無意識的にせよ、誰かがいずれかの形で好奇心という欲求を奪ってしまっているということになります。関心を向けるべきは、いかにして好奇心を育てるかではなく、いかにして好奇心を殺してしまわないかではないでしょうか。

 

 私達が仕事帰りに孫子女子勉強会に集まったり、遠方からでもZoomで参加したりするのは、欲求に突き動かされているからに他なりません。義務ではこんなことは続きません。私達は孫子女子勉強会に出会って、好奇心という欲求を失わずにすみました。それどころか、参加を重ねるごとに欲求が大きくなるのを感じています。

 

 好奇心を誰かに教えられたわけではありません。ひとつ言えることは、役に立つことを得ようというマインドをはずしたことで、面白いと思って拾える範囲が広がりました。もちろん、提供される話題が、すぐには役に立ちそうにないけれど、後からじわじわ効いてくるような面白さを含んだ内容であることも大きな理由のひとつです。だから、孫子女子勉強会はやめられないとまらないのです。

楽しむ気持ちの先にある学び

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一般社団法人経営学習研究所(MALL)の企画イベントには、楽しそうだなと思えるものがあります。2月に音楽座のスタジオで開催された音楽を素材にしたチームづくりのイベントも、楽しそうと思って参加しました。参加してみたら期待以上に楽しめた上に気づきと発見がありました。その続編となる音楽座ミュージカル公演ツアー(2019年6月23日開催)も、純粋に「音楽座のミュージカルが楽しそう!」と思って参加しました。ミュージカルを楽しめたのはもちろんですが、結果的に、またしても気づきと学びを得ることになりました。

 

 

音楽座ミュージカル公演ツアーのプログラム

2月のイベントで練習風景を見せてもらった音楽座の本番ミュージカルを一緒に楽しみましょうと、田中理事の粋な計らいで企画された音楽座ミュージカル公演ツアー。MALLの理事を含めた20名以上が今回のツアーに参加しました。

 

 ツアーのプログラムには、ミュージカル鑑賞の前にリハーサル見学と舞台裏ツアー、鑑賞後には打ち上げリフレクション会のオプションが組まれ、ミュージカル鑑賞だけにとどまらないところにMALLらしさを感じました。

 

音楽座ミュージカル公演ツアープログラム

  • リハーサル見学
  • 舞台裏ツアー
  • 質疑応答
  • チケット座席抽選・休憩
  • 開場
  • 開演
  • 終演
  • 打ち上げリフレクション会

 

舞台裏見学ツアー

ツアーの集合時刻はミュージカル開演の2時間前。一般の観客が集まり出すはるか前に集合したおかげで、ミュージカルのリハーサルを客席で見るという得難い体験ができました。普段着のままで役者さん達があるシーンを切り出して舞台上で演じると、客席で観ていた音楽座の関係者数人からの指摘が飛び交います。この日は東京公演の千秋楽の日でした。つまりすでに何度か舞台で演じてきたわけですから、細部への指示かと思いきや、意外と大筋な部分への指摘であったりもしました。とは言うものの、素人が見る分には気づかないようなことに対しての指摘であり、そういう視点で切り込むのかという面白さがありました。

 

「段取りしてるように見えるんだよね。もっとこう衝動に突き動かされるように言葉が出て来るシーンなんじゃないの」

 例えば、こんな指摘がありました。脚本があって演じているのは間違いないわけで、段取りしているように見えるのと衝動にかられているように見えるの違いはなんだろうと疑問がわいてきます。

 

 リハーサルの指摘で飛び交う言葉がとても抽象的で、それで通じるのかなと思うほどでした。

「もっとニュアンスを出して。そこは後ろ髪を引かれるように立ち去る場面なんだから」

ニュアンスを出す?なんとなくわかったような気にはなるけれど、それを聞いて、どう修正できるんだろう?とリハーサルを見せてもらいながら疑問符が浮かんできました。

 

 何より驚いたのは、指摘を受けて、舞台上の役者さんが「わかりました」と答えるものの、やり直しをしないことでした。舞台上には何人もの役者さんがいて、とあるシーンで、とある役者さんの動きが変わるということは、舞台をつくる役者さん全員に関わってくることなのに、本番までどうなるかわからないままでリハーサルは進んでいくのです。

 

 リハーサルを見せてもらった後は、舞台上にあがって舞台装置を間近で見たり、舞台から客席を見るというなかなかできない体験をしました。その後は、役者さん達が舞台から裏手にまわる暗いトンネルを抜けて、バックステージを見学。バックステージツアーの案内をしてくれた役者さんが、せまいスペースに所せましと置かれた楽器を指さしながら、「ここで生演奏をするんです」と説明してくれました。ミュージカルは繰り返し上演されるものだから、てっきり音楽は録音したものを流しているのかと思っていたのに、なんと舞台裏で生演奏をしていたとは。これを知っただけでもバックステージツアーに参加したかいがありました。

 

 舞台裏を抜け出した後は、バックステージツアーを案内してくれた役者さんが答えてくれる質問コーナーまで設けられていました。普段見ることのないものを見た後には、色々な疑問がわいてくるものです。そのままにしておけば、時間とともに消え失せてしまう疑問を受けてくる場があると、そこからさらなる発見や気づきが得られたり、ますます興味がわいたりするものです。実際、この質問コーナーでのやりとりを聞いて、ミュージカルの奥深さを知ることになりました。

 

せっかくの機会なので、私もひとつ質問をしました。

私:「リハーサルではとても抽象的な言葉で会話がなされていました。私には抽象的過ぎて意味がわからなかったのですが、音楽座の人達にはそれで通じるのでしょうか?」

 

役者さん:「具体的にここをこうしてと言ってしまうと、それ以上の可能性が広がりません。言っている方にも正解があるわけではありません。抽象的な表現をすることで解釈の幅ができて、新しい表現が生まれてくる可能性が出てきます

 

 こんな風にどの質問にも即答でよどみない回答が返ってきました。何を聞かれてもスラスラとゆるぎなく答えてくれるのは、音楽座の哲学が身体知化されているからでしょう。

 

ミュージカル鑑賞

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      座席のくじを引く様子 

 

バックステージツアー後は休憩タイムをはさんで、いよいよミュージカル鑑賞です。田中理事が手配してくれていたチケットの配布はくじ引き方式。どの座席になるかは引いてみるまでわからない仕掛けに、ドキドキしながらチケットを受け取りました。ちょっとした仕掛けで鑑賞前の気分はさらにあがります。

 

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    音楽座ミュージカル公演のポスター

 

 ミュージカルの演目は、ルーマー・ゴッデン原作の「ねずみ女房」をもとにした「グッバイマイダーリン★」。

主人公は家ねずみの奥さん。夫ねずみが「食べることより大事なことがあるか?」と言うように、他の家ねずみは食べ物のことが関心の中心になる家の中が全世界。けれども、家ねずみの奥さんは、それとは対照的に、かごの中に捕らわれたキジバトから聞く窓の外の世界に心を踊らせていく。最後には必死の力でかごの鍵をあけて、キジバトを外に逃がしてやる。

これがこのミュージカルのざっくりとしたストーリーです。登場人物の関係が複雑過ぎるわけでもなく、深みはあるけれど難解過ぎるわけでもないストーリーです。

 

 公演が始まると、舞台で繰り広げられる世界を感じながら楽しみました。リハーサルで見たシーンになると、あれからどう変わったのかなと特に注意を向けたり、狂うことなくベストなタイミングで音楽が流れてくると、この舞台裏で生演奏している様子に想像がふくらんだりして、一味違った鑑賞もできました。

 

打ち上げリフレクション会

ミュージカルを観た余韻を残したままに、会場から場所を移しての打ち上げリフレクション会に参加者しました。リフレクション会と名がついてはいるものの、基本は話したいことを話す会でした。形式ばって一人ずつミュージカルの感想を述べましょうなんてしない方が会が楽しくなるし、話したいことを話している中で必然的にリフレクションが含まれるからです。

 

例えば、こんな風に。

Aさん:「ミュージカルは食わず嫌いだったんですが、今日は楽しかったです」

私:「ミュージカルのどういうところに壁があったんですか?」

Aさん:「唐突に歌い出すところです(笑)」

私:「それが、今日鑑賞してどう変わりました?」

Aさん:「話の流れの中で、歌で表現することが自然に感じられました」

私:「映像の8割はBGMで決まるとプロの方から聞いたことがあります。セリフを言うだけより、歌で表現する方が観客の感情を喚起するのかもしれませんね」

 

 ミュージカル鑑賞という同じ体験をした後ですから、話題はどうやったって必然的にそれに関係したものになるに決まってます。これまでにいくつもの場づくりを行ってきたMALL理事のみなさんは、そこのところをようくわかっていらっしゃいます。

 

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     リフレクション会での板谷理事

 

楽しむ気持ちの先にある学び

私達が鑑賞した公演では、ミュージカル終演後に國學院大學久我山中学高等学校武蔵越生高等学校吹奏楽コンサートがありました。演奏のみならず、生徒によるダンスありという演出つきでした。この吹奏楽コンサートの何が楽しかったかというと、指揮者の先生がそれはそれは楽しそうに全身で楽しさを表現していたことです。当然ながら、生徒達も楽しみながら演奏やダンスをしている様子が伝わってきます。音楽って音を楽しむものだったなと今更ながらに思い出させてくれました。演者が楽しんでいると、観客にも伝染して、こちらも楽しくなってきます。

 

 私達が音楽座のミュージカルを楽しめたのは、きっと役者さん達自身が楽しんで演じていたからに違いありません。楽しんで演じる秘訣は、音楽座のメンバー誰もが意見を掛け合わせて即興的につくりあげていく一回限りの舞台にあるのかもしれません。上演までの稽古で徹底して作り込んで、それを繰り返し上演するのだとしたら、人間の飽きるという習性によって、演ずることを楽しめなくなってしまうのではないかという考えがふと頭をよぎりました。

 

 それぞれの役者さんの解釈によって創造的につくり上げていくことが音楽座をミュージカル劇団としてユニークな存在にしていることは、2月のイベントで知りました。今回、リハーサルを見学して、その創造の源は役者さんの日常生活の経験がベースになっているであろうことがわかりました。なぜなら、「もっとニュアンスを出して」の解釈は、あの時の気持ちという生活経験の引き出しがなければできないからです。役者さん達にとって、演じる仕事と日常生活は地続きなのだろうと思います。

 

 楽しんで演じたもの/つくったものは、その楽しさが受け手にも伝播する。仕事と日常生活は地続き。これらは、役者さんに限らず、誰にでもどんな仕事にも当てはまることではないでしょうか。楽しむつもりで参加した音楽座ミュージカル公演ツアーでしたが、結局、あれやこれやと大切な気づきを得ることになりました。これは、前回のブログに書いたBの学びに他なりません。

 

 私達は、ついつい、今すぐに役に立ちそうなものを学ぼうとしがちです。けれども、役に立つからこれを学ぼうというマインドで学べるものは、その枠内におさまるものに限られてしまいます。自分の役に立ちそうな領域から遠く離れた領域での体験は、純粋に楽しめて、なおかついつもとは違う視点が得られます。私にとっての今回のミュージカル鑑賞がまさにそれでした。

 

 役に立つか立たないかで経験することを選んでしまうと、思いもかけずに学べてしまうものを取りこぼしてしまいます。楽しむ気持ちで経験すれば、受容する幅がぐんと広がって、そこから学べることの可能性も大きく広がります。楽しむ気持ちの先にある学びから得られるものは大きいのです。

 

 「役に立つことより大事なことってありますか?」と聞かれたら、きっぱりとこう即答します。「楽しむことです」

孫子女子勉強会とは何か

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月に一度、その日が来るのを楽しみにしている孫子女子勉強会。勉強会という名がついてはいるものの、その言葉からイメージされる内容と実態は違っています。じゃあ、孫子女子勉強会とはいかなるものかと言われると、これがなかなか説明しづらいのです。が、前回のブログに引き続いて、今回も孫子女子勉強会を解剖することにチャレンジしました。

 

 

勉強会開始前から学びの姿勢になる

2ヶ月前から始めたzoomで遠隔地とつないでの開催も定着しつつある孫子女子勉強会。物理的な制約条件のないオンライン参加は一見ハードルが低そうに見えますが、実のところはわざわざ足を運ぶ会場参加よりも難しいのではないかと思います。なぜなら、気軽に参加できるオンライン参加は、参加しないという選択も気軽にできてしまうからです。オンライン参加は、気軽さゆえの参加しやすさとハードルの高さという矛盾をはらんでいるのです。

 

 オンライン参加のハードルの高さをいともたやすくクリアして、今回もヒューストンと福岡からの参加表明が事前にありました。それを知った東京側のメンバーからは、それならばと、PCやスピーカー、プロジェクタを持って行くという声が次々にあがりました。さらに、田中先生からは、「電気屋祭り」になるならばと、いつものテキストだけの紙のレジュメをパワーポイントにアップグレードするという宣言が飛び出しました。

 

 そんなやりとりをオンライン上でなされるのを見ているうちに、いつもにもまして気分が上がってきて、勉強会開始前からワクワクが始まりました。会場に向かう足取りは自然と軽くなり、何がおこるかわからないけど、いやむしろ何がおこるかわからないことを勉強会に期待している自分がいました。孫子女子勉強会は、会が始まる前からすでに学びの姿勢になるのです。

 

人生100年時代の「攻めと守り」

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     オンライン接続セッティング中の様子

 

ここのところの勉強会はオンライン接続のセッティングから始まります。田中先生渾身作(?)のパワポ資料とヒューストンと福岡からの参加者の顔がプロジェクタに投影されると、その時点ですでに「おおっ!」とちょっとした盛り上がりを見せます。

 

 パワポの1枚目のスライドには、東京都美術館で開催されているクリムト展のポスターが貼られていました。そのスライドをプロジェクタで映し出しながら、オーストリアの画家であるクリムトが当時の絵画の伝統をどのように革新していったかの解説が田中先生からなされました。「孫子の兵法を勉強するはずの会でクリムトの話?」なんて野暮なことを思う参加者は一人もいません。ベストセラーになった「会計の世界史」執筆以来かどうかは知りませんが、絵画について微に入り細に入りの知識を仕入れている田中先生からのクリムトについての解説に、「へ~」「ほ~」と今まで知ることのなかった絵画の世界へと誘われて、私達はクリムトへの興味関心を高めていったのでした。

 

 2枚目のスライドには、本日のテーマ「攻めと守り」の文字とともに、その考え方のもとになる孫子の兵法からの一説が書かれていました。

「それ勝敗攻取してその功を修めざるは凶なり。これを名付けて費留という」

 

目先の戦いに勝っても大きな目的を果たせなければ意味がない」という孫子の教えです。ここから攻めと守りの使い分けが大事という論へと展開していきます。

 

 3枚めのスライドでは、孫子の兵法の一説から抽出した「攻めと守り」を自分達の生活に当てはめるとどうなるかを考えるキーワードとして、「貯金2000万円より健康と小商い力」が書かれていました。金融審議会の報告書で大きな話題になっている「貯金2000万円」のキーワードが、現実味を帯びて私達に問いかけてきます。

 

 2000万円の貯金をする(守る)より、健康で小商いをする(攻める)方が、人生100年時代を長期的に生き残る戦略になるのではないかというのが田中先生からの問いかけでした。小商い力には好奇心をもって学ぶという姿勢が必要であると、学びのあり方へとテーマがうつっていきます。

 

 学びのあり方としては、孫子女子勉強会ではすっかりおなじみになったマズローのD動機(欠乏の不安から生じる動機)とB動機(こうありたいという欲求から生じる動機)にあてはめて、「Dの学び」と「Bの学び」があることを田中先生自身が教えてきた経験にもとづいて説明してくれました。「Dの学び」と「Bの学び」の違いを整理するとこうなります。

 

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      「Dの学び」と「Bの学び」の違い

 

 そして、再び、伝統的な絵画をよしとする人達に対抗して分離派を築いたクリムトの話題にもどって、「何を守り、何を破壊すべきか?」を、時代の大きな変化点にいる今こそ考えていこうと勉強会は締めくくられました。

 

孫子女子勉強会とは何か

こうやって文字にしてみると、クリムト孫子人生100年時代に生き残る戦略、「Dの学び」と「Bの学び」、とあちこちにとっちらかった内容をかじっただけのようにも思えますが、勉強会に参加していると、1本の筋が通った内容を学んでいる感覚があるのが不思議です。で、結局、「この勉強会に参加して何が得られたの?」という質問への答えには窮します。孫子女子勉強会は典型的な「Bの学び」の場で、明確な役立ちについては説明ができないのです。でも、私達にとっては、孫子女子勉強会は「Bの学び」の場であることがあまりにも当たり前過ぎて、何が得られたかを問う発想自体がないのです。

 

 いつものように勉強会後に出かけた懇親会で、田中先生が、「Bの学びというものがどうやってもわかってもらえないんですよね」と言葉を漏らしました。それを聞いた私は、これは体験者にしかわからないだろうなあと思いながら、孫子女子勉強会という「Bの学び」の体験者として、「Dの学び」と「Bの学び」の違いをもっと端的に言えないものかという問いが浮かんできて、頭から離れなくなってしまいました。そして、その問いを持ち帰ることになったのです。

 

 家に帰ると、読み終わりかけていた1冊の本「人はなぜ物語を求めるのか」が目にとまりました。この本の中に持ち帰った問いのヒントがあった気がして、目次をパラパラとめくりました。そして、この箇所にたどりつきました。

 

知らないには2種類の様態がある。

1つは、自分がそれを知らないということは知っていること。問いを立てた結果「知らないこと」になったこと

もう1つは、自分がそれを知らないということすら知らないこと。自分の意思で問いを立てること自体ができないこと

  

 「Dの学び」と「Bの学び」の違いはまさにこの違いだと確信しました。私が孫子女子勉強会で学んでいるのは、自分だけでは問い自体が浮かばないような内容です。別の言い方をすれば、孫子女子勉強会とは、ある問いに対する答えを得る場ではなく、問いが立ち上がってくる経験を得る場です。

 

 田中先生の膨大な知識から時代にあわせてチョイスされたキーワードとその解説から、心理的安全性が保たれた場で参加者から飛び出してくるここだけの話から、自分が知っていた世界の狭さを見事に打ち破られるという衝撃を受ける場が孫子女子勉強会です。おそらく、田中先生にとってもそういう場であるからこそ、毎回のキーワードチョイスに手抜きがないのだと思います。

 

 Bの学びの楽しさの正体は、まだまだ知らない世界がこんなにも広がっているという感覚からくるものです。知らないことがまだまだあるという自覚は、もっと知りたいという好奇心を呼び起こします。短期的には確かに「Bの学び」の役立ちの説明はできませんが、長期的には好奇心を呼び起こされて学び続ける姿勢が必ず役に立つと私は信じています。人生100年の長期戦では学び続けることが必須条件になり、「Dの学び」では「それ勝敗攻取してその功を修めざるは凶なり。これを名付けて費留という」になってしまいます。「Bの学び」は長期的に生き残るための「攻め」なのです。

孫子女子勉強会が長く続くワケ

孫子の兵法をテーマに月に1回貸し会議室に集まって開かれる女性限定の孫子女子勉強会も6年目に突入。講師の田中先生の周囲では孫子女子勉強会の知名度がじわじわと向上し、2019年4月に発売された守谷淳先生の新著「マンガ 最高の戦略教科書 孫子」に「孫子女子勉強会」の言葉が掲載されるという快挙も成し遂げました。講師がボランタリーで行う勉強会はいつの間にか自然消滅するパターンが多い中で、孫子女子勉強会はなぜこんなにも長く続いているのでしょうか。令和初回の勉強会は、孫子女子勉強会のこれまでを振り返る総集編として開催されました。私自身もあらためて「孫子女子勉強会とは」を振り返る中で、この勉強会が長く続いているワケが見えてきました。

 

 

孫子女子勉強会のテーマ

勉強会では、講師の田中先生が選定した毎回のテーマが設定されていて、1枚程度のレジュメにまとめられて参加者に配布されます。このレジュメだけを見ても、その勉強会がどんな内容だったのかはほとんどわかりません(笑)。なぜなら、このレジュメは例えていてば湖に投げるための小石のようなもので、それを投げた後にどんな波紋が広がるかは小石を見ただけでは全くわからないのと同じだからです。

 

毎回のテーマは基本的に孫子の兵法からの1節をとりあげています。例えば、「百選百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」というような一説をとりあげ、勝つことより不敗を目指すべきという解説の後、参加者が差し出す事例も交えて、時には真剣に時には大笑いしながら、解説と自由な発言によって会が進みます。

 

また、ある時には、孫子の兵法とは別の文献から、男女がわかりあえない理由を解説した一説をテーマにとりあげ、「なるほどそうだったのか!」「全く理解できない」などとおおいに盛り上がることもあります。

 

孫子の兵法を体系的に勉強しようというより、適時にかなった一説をテーマとしてとりあげ、それをもとに考えていくのが孫子女子勉強会です。時には、以前にもとりあげたテーマを再びとりあげることがありますが、その時の時流によってまた違った意味合いをもって物事を見る指針となってくれます。孫子の兵法にからめて、別の文献からもテーマをとりあげることがあります。ですから、孫子の兵法をテーマにしながら無限に勉強会を続けることができるようになっています。

 

 

孫子女子勉強会で学んでいること

女子限定の勉強会で「孫子の兵法」がテーマと言うと、大抵の場合、???という反応が返ってきます。孫子の兵法は戦いのための指南書で、ビジネス応用として学ぶ男性が多いものですが、私達は人生の指南書として孫子の兵法を学んでいます

 

勉強会が始まった当初は、まだまだ男性中心の会社組織の中で、女性がどのようにして生きていくのかを学びのメインテーマとしていました。男性に勝つのではなく、少数派の女性が負けないためにどうすればいいかは、敵多数の中で生き残る方法を説く孫子の兵法から学べることが多くありました。

 

男女がわかりあえない理由を学んだのは、「彼を知り、己を知れば百戦殆ふからず」と孫子が説くように、男性と女性の思考スタイルの違いを学ぶためでした。

 

勉強会を続けているうちに、「人生100年時代」という言葉が時代のキーワードとして注目されるようになりました。それに合わせて、勉強会のメインテーマは、「会社組織の中でどう生き残るか」から、「いかに自立するか」に移行していきました。

 

ある回では、マズローのBe動機とDo動機をテーマにし、自立している人はBe動機で生きていることを中心に意見交換しました。

 

総集編となった今回もBe動機とDo動機が話題にのぼりました。

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              Be動機とDo動機の生き方

 

勉強会で意見交換しながら、子ども時代は誰もがBe動機で生きていても、社会人になると自分の能力の不足に気づいてDo動機で生きるようになることが明らかになりました。その後、Be動機で生きて自立する人と、組織の論理にしばられたままDo動機で生きる人に分かれるだろうという議論になり、いかにしてDo動機からBe動機への転換を成し遂げられるかという次回テーマも浮かび上がってきました。こうやってテーマが次回へとつながっていくことで、途切れることなく次回もますます楽しみに勉強会は続いていきます。

 

ちなみに、このブログを書きながら、子ども時代のBe動機とDo動機を経てからのBe動機は異なるのではないかと気づきました。子ども時代のBe動機は本能的にありたいままに生きることですが、Do動機から転換したBe動機は、己と己をとりまく社会の動きを知った上で自分はかくありたいというBe動機だと思うからです。

 

私達はこうやって、孫子の兵法をテーマにしながら、変わりゆく時流の中でいかに楽しくハッピーに生きていくかをこの勉強会で学んでいるのです。

 

 

孫子女子勉強会の開催方法

孫子女子勉強会は、田中先生を含めて5人とこじまんまりと始まりました。少人数の貸し会議室を借りてスタートしたのですが、ある時、大人数の会議室しか予約がとれなかったことを機会に、参加者をクチコミで広げることになりました。その後も、参加者の紹介制で少しずつ参加者が増え、東京以外に住む参加者にも広がりをみせました。

 

参加者が増えても、貸し会議室で行うスタイルは変えずに、参加できる人、参加したい人がその回ごとに集まって勉強会を開くスタイルをずっと続けてきました。その回によって人数の多少はありますが、参加者がゼロになることはなく、例え少人数開催になっても、少人数だからこそのざっくばらんな語らいを中心として途切れることなく続けてきました。

 

立派な会場で行うのではなく、いつもの貸し会議室を借りて、会議室費用を割り勘で支払いするスタイルも無理なく勉強会を続けてこられた理由のひとつです。

 

孫子女子勉強会メンバーは、東京だけでなく他の地域にもいます。九州や沖縄在住の仲間は東京に来る予定とあった時、または来られるタイミングで東京に来て、勉強会に合流する形をとっていました。とはいえ、毎回は参加できないのが東京から離れて住む参加者にとっての悩みどころでした。私も一時期、四国に赴任していたことがあり、その時は、参加できない悔しさを毎回かみしめていたのでその気持はよくわかります。

 

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      孫子女子勉強会のZoom中継

 

これまでは東京の貸し会議室を会場にして集まれる人が参加するスタイルを踏襲してきましたが、孫子女子勉強会も今どきのテクノロジーを取り入れ、離れた地に住む参加者への参加の門戸を開けるようになりました。アメリカのヒューストンに赴任した勉強会仲間の強い熱意と熱烈サポートする東京メンバーのおかげで、前回からZoomを使って遠隔地とも結んで中継する勉強会の試みを始めました。前回はヒューストンと東京をつなぎましたが、今回はヒューストン、東京、九州2地点の4拠点をつないで実施しました。これで、東京以外に住む参加者も勉強会に参加できるようになりそうです。

 

 

孫子女子勉強会のコミュニティ

勉強会コミュニティは参加者の数を少しずつ広げてはきましたが、大きく拡大することはありませんでした。参加メンバーのFB投稿に対して、「私も参加したい」というコメントがつくことがありますが、あくまでも顔の見える関係をキープできるサイズで、参加者のおすみつきのある人に限ってメンバーを増やしてきました。

 

それがゆえに、勉強会の中で、「ここだけの話なんだけど・・・」という本音トークを交えて意見交換できる場ができています。いわゆる心理的安全性が保たれています。私達は心理的安全性が保たれるコミュニティであることに細心の注意を払ってきました。これが、コミュニティが崩壊したり自然消滅することなく勉強会が続いているワケのひとつです。

 

ですから、遠隔配信ができるようになったからと言って、誰でも参加できるオープンな勉強会になることはないと思います。私達は参加人数という量の拡大を目指しているのではなく、顔が見える範囲でともに学ぶコミュニティとしての質を重視しているからです。

 

勉強会メンバーには、初期からのメンバーでみんなが大好きで、みんなを大好きでいてくれる象徴的な存在の人がいます。肩書を聞けば「おっ」と思うような方もいます。けれども、参加期間や肩書は全部取っ払ったフラットな関係で、ともに学ぶ仲間という関係でつながっています。

 

 

孫子勉強会が長く続くワケ

このコミュニティの質を維持してきたことこそが、勉強会が6年もの長きに渡って続いてきたワケであり、これからも続くであろうと思えるワケです。

 

あらためて振り返ってみると、勉強会が続いてきたのは不易流行を実践してきたからでもあります。孫子の兵法という勉強会の大きなテーマとコミュニティの質は変えずに、勉強会から学ぶことや開催方法は「兵の形は水に象る」がごとく、その時々で臨機応変に実践してきました

 

長く続くものには続くなりのワケがあり、目に見えない地道な工夫がきちんとなされているのです。だからこそ、これだけ長く続いても飽きることなく楽しい勉強会であり続けられるのです。そして、これから先も続いていくことを誰も疑わずにいられるのです。

アドラー心理学のライフスタイルから学ぶ点と線の生き方

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デパ地下がいつもと違う客層でにぎわった3月14日の孫子女子勉強会は、再び熊野さんを講師に迎えてアドラー心理学について学びました。年度末がせまっていることもあって欠席者がちらほらいて、こじんまりとした人数での開催となりました。私は、前回、不覚にも電車の乗り間違えによる遅刻という失態をやらかしてしまったため、今回は遅刻してなるものかと気合を入れて貸し会議室に向かったところ、なんと1番のりでした。

 

 

アドラー心理学とライフスタイル

孫子女子勉強会でアドラー心理学を学ぶのは2回目となり、アドラー心理学の基本的な考えは知った上で、今回は「ライフスタイル」という切り口から、幸せに生きることについて学びを深めました。

 

熊野さんは、ともにオーストリア出身のユダヤ人であり心理学者であるフロイトアドラーを対比して、アドラーの立ち位置を解説してくれました。

 

f:id:n-iwayama:20190330194117p:plain             アドラーフロイト

 

アドラーフロイトは二人とも第一次世界大戦を経験し、その経験からそれぞれの問いを生み出しました。フロイトは「なぜ人は戦うのか?」と問い、アドラーは「どうすれば人は仲間になれるのか?」との問いを立てました。フロイトは過去から現在を見ようとし、アドラーは現在から未来を見ようとしたとも言えます。

 

アドラーは、立てた問いを探求するために、自分自身と他者の心のクセや行動パターン、すなわちライフスタイルを理解する必要があると考えました。アドラー心理学の根幹をなすライフスタイルがこの日のテーマでした。

 

ライフスタイルは、その人特有の思考、感情、行動の特性のことを指します。別の言い方をすれば、パーソナリティであり、性格のことです。アドラー心理学では、ライフスタイルは自己の世界の現状と理想に関する本人の信念の体系とされ、次の3つの要素からなるとされています。

  • 自己概念
  • 世界像
  • 自己理想

 

「自己概念」は、「私って~」と思っているセルフイメージのことです。「世界像」は、「世の中って~」と思っている人生の現状のことです。「自己理想」は、「私は~でありたい」と思っている自分のありたい姿のことです。

 

この3つの要素のうち、ライフスタイルに一番影響を与えるのは「自己理想」であり、自己理想という妄想に突き動かされて性格が形成されると、熊野さんは付け加えました。

 

私は、新しい概念を学んだ時には、その概念を構成する要素間の関係を考えます。たいていの場合、単純に並列されるものではなく何らかの関係があり、その関係を考えることで理解が深まるからです。ライフスタイルの3つの要素の関係は、次のような関係であると私は理解しました。

 

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         アドラー心理学のライフスタイル

 

自己概念と自己理想は現在と未来の関係で、現在の自分が未来の自分を見据えて進んでいくイメージです。どのように進んでいけるかを象徴するのが世界像です。私達は一人の世界に生きているのではなく、社会という世界の中で生き、その社会環境の影響を受けているからです。

 

ライフスタイル診断

ライフスタイルとは何であるとの説明を受けるよりも具体的に自分のライフスタイルを知る方が、関心も理解もぐんと深まります。そのことを熟知している熊野さんがこの日の勉強会に用意してくださっていたのはアドラーバージョンのライフスタイル診断でした。30問の設問に○△で答え、答えを点数化します。さらに、ライフスタイルの分類でグループ化された設問ごとに点数を合計すると、自分がどのライフスタイルタイプの要素が高く、どのタイプの要素が低いかがわかるという仕組みです。田中先生も含めて参加者全員でこのライフスタイル診断を行いました。

 

アドラーバージョンのライフスタイルタイプは6つに分類され、それぞれのタイプに特徴解説がつけられています。解説は良い面と悪い面が両論併記されています。例えば、ライフスタイルのタイプには「エキサイトメント・シーカー」タイプがあります。このタイプは、好奇心旺盛なのが特徴で、元気で勢いもあるけれども自分自身でも訳がわからなくなったりすることもありそうというような解説が書かれています。

 

血液型や星座をはじめとして、世の中には人をいくつかのタイプに分類するシステムがありますが、数個のタイプに分類できるほど人は単純でないことは、孫子の教えをテーマにもう何年も勉強会を続けている私達は十分に承知していました。それでも、ライフスタイル診断にはおおいに盛り上がりました。

 

ライフスタイル診断で、いつもとはまた一味違った盛り上がりを見せている最中に遅れて勉強会に参加したメンバーがいました。そのメンバーが席につくと、熊野さんはライフスタイル診断の用紙を差し出して設問への答え方を説明しました。点数計算の段階になると、「俺がやってやる」と、隣に座っていた田中先生が診断用紙を自分の手元に引き寄せて計算を始めました。熊野さんの心配りと田中先生のタスク分担のおかげで、遅れて参加したメンバーも含めて全員がライフスタイル診断を行うことができました。

 

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ライフスタイル診断の計算をする田中先生

 

各自の診断結果にひとしきりわいた後で、熊野さんはこうおっしゃいました。

「ライフスタイルに優劣はありません。100人いれば100通りのライフスタイルがあるほどに人間は多様性にとんでいます。でも、面白いことに、コミュニティにはライフスタイルの特徴が同じ人が集まる傾向にあるんですね

 

そういう話を聞けば、もちろん孫子女子勉強会メンバーの特徴は何か?と知りたくなるのが人情というものです。そうしたらやっぱりありました。全員が「エキサイトメント・シーカー」タイプの要素が高かったのです。まあ、言われてみれば当たり前です。仕事が終わってから貸し会議室に集まって、孫子をテーマにした勉強会に参加しようというメンバーですから、好奇心が旺盛に決まっています。

 

早期回想

ライフスタイルについて体感的に理解した後で、熊野さんは、私達に質問を投げかけながら、ライフスタイルについての学びを進めていきました。

 

はじめの質問は

「ライフスタイルが形成されるのは何歳だと思いますか?」

でした。私は「12歳」と答えました。ドンピシャではなくてもかなりいい線を言っているはずという確信をもって。なぜなら、3人の子ども達のことを思い浮かべると、小学生の間にはっきりとそれぞれのライフスタイルが確立されていたと思えたからです。

 

私の他には、「25歳」や「40歳」と答えた人がいました。きっと、そう答えた背景には、そう答えるに至った何がしかの経験をもっていたのだと思います。

 

アドラー心理学では、はじめのライフスタイルが形成されるのは10歳と考えられているそうです。生まれてからライフスタイルが形成されるまでの10年を長いとみるか短いとみるかは捉え方次第ではありますが、人生100年と考えると、かなり早い段階でライフスタイルが形成されることになります。

 

熊野さんからの次の質問は、

10歳くらいまでのエピソードで強烈に覚えていることは何ですか?

というものでした。

 

これに答えたのが、孫子女子勉強会の誰もが大好きな板谷さんでした。

私、すごく覚えていることがあるの。ピアノを習いたくて習いたくて。それもお友達が習いに行っていた同じ先生に習いたかったの。だけど、うちにはオルガンしかなかったから、その先生に「オルガンしかないからあなたはダメ」と言われて、すごく悲しかったの。

 

大人になった私達にとっては、「そうそう世の中ってそういう不条理なことがあるのよねえ」ですませるかもしれませんが、この世に生を受けてから10年に満たない時の経験としては、人生の生きづらさがどれほど深く心に刻まれることでしょう。ああ、いつ見ても満面の笑顔でいる印象の板谷さんでもそんな経験があったんだなあと思ったのですが、このエピソードには続きがありました。

それからしばらくしてから、家にピアノが届いたの。その嬉しかったことは今でもはっきり覚えているわ。

 

いつものように華が咲いたように明るい笑顔で板谷さんは言いました。板谷さんの身におこったドラマチックな展開に、その場にいた誰もの口元が思わずほころびました。願いが叶わない深い悲しみから一転して、願いを叶えてくれるピアノが届いた時の喜びはどれほどだったか。

 

この10歳くらいまでの、ある日あの時の強烈な思い出のことは「早期回想」と呼ばれて、ライフスタイルの世界像の形成に影響を与えるのだそうです。ある出来事をどう捉えるか、どうストーリーに組み立てるかの語りから、その人の世界像がわかると熊野さんから解説がありました。

 

その解説を聞いた板谷さんが再び言葉を発しました。

あー、私がなぜ私なのかがわかったわ!私、「人生って面白いわー」と思っているけれど、この経験があったからなのねー。

 

きっと誰にでも早期回想があるはずです。私にもあります。私の早期回想はこんなエピソードです。

 

確か夏休みの最終日だったと思います。どういういきさつだったのかの記憶は定かではありませんが、宿題の絵画ができていなかった私を見かねた母が、床の間に生けてあった花の絵を描いてくれました。絵を描き終わった母が出かけた後、私は一人、床の間の前に立って母が描いた絵を見つめていました。

 

その時の私の気持ちはどうだったかというと、「ラッキー、これで宿題ができなかったと言わずにすむわー」などというものでは全くなく、ただひたすらに悲しい気持ちでいっぱいでした。

 

それから大急ぎで新しい画用紙を取り出し、自分の手で絵を描きました。うまくは描けませんでした。けれども、その絵に自分の名前を書くことには微塵の後ろめたさも感じることはありませんでした。

 

このエピソードから、私は、自分の手を動かしていないものに自分の名前をつけることは自分のアイデンティティを放棄することだと深く心に刻みました。

 

10歳までの強烈な体験がライフスタイル形成に影響し、10歳頃にはライフスタイルが決まっている。10歳までがライフスタイル形成のひとつの大きな区切りであることが明らかになりました。

 

「何歳までならライフスタイルは変えられるか?」

という弟子の問いかけに対して、

「死ぬ直前まで変えられる」

アドラーは答えたそうです。

 

アドラーは、自分の人生の脚本家は自分であり、ライフスタイルは固定化されたものではなくいつでも自己決定できると説きました。不完全な自分を知って、変わりたいという思いを誰しもが持っています。ライフスタイルは死ぬ直前まで変えられるとするアドラー心理学は、変わりたいと願う人にとって希望を与えてくれるはずです。

 

ライフスタイルの自己決定性

いつもは明るく笑っている田中先生が、この日の勉強会では途中から神妙な面持ちで何か考え込んでいることに気づきました。その理由は田中先生のこの一言に凝縮されていました。

「今日の内容は親としたらドキッとしますね」

 

確かに、10歳までにはじめのライフスタイルが形成され、その形成への親の影響の大きさは計り知れません。それは板谷さんの早期回想エピソードからもわかります。私も子をもつ親として、親が子に与える影響の大きさを思うと、その責任の大きさに立ちすくんでしまいそうになります。

 

その一方で、たとえ子どもが小さくとも親が子どもに与える影響力はそんなにないのではないかとも思っていました。もし、親の影響が大きいのなら、同じ家庭に育った子どもは似通ったライフスタイルが形成されてもおかしくありません。けれども実際には、同じ親から生まれ、同じ家庭環境で育っても、こんなにも違いが出るのかと思うほどに、3人の子ども達は3者3様に個性あふれるライフスタイルが形成されました。

 

この勉強会でライフスタイル形成という重要なキーワードを得たのですが、あと一歩、つかみきれないモヤモヤを抱えてしまったのです。その日から、私は無意識下のうちに、いつもライフスタイル形成のことを考えていました。少しずつ言語化できる見通しが立って、ようやく書けるようになりました。

 

早期回想は、自分が経験したある出来事からライフスタイルが形成されることを教えてくれます。このことを紐解いてみると、まず始めに動くのは感情です。その後で意識的/無意識的に考え、行動にいたります。感情から行動までの一連の流れは経験と呼ばれるものです。そして、ライフスタイルとはその人特有の思考、感情、行動であるという定義を思い出してみると、経験とはライフスタイルそのものです。さらに、私達は経験をするだけでなく、遭遇した出来事に意味づけを行います。板谷さんの早期回想の例で言えば、「人生って何がおこるかわからない面白いものなんだ」というような意味づけがされるようなイメージです。

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         出来事と経験

 

経験する時にはまず感情が動くとすると、この感情はどうやっておこってくるのかという疑問が次にわいてきます。例えば、嬉しいという感情は、嬉しいと思おうと思っておこってくるものではありません。思考はコントロールできても感情はコントロールできません。私は、感情はその人のライフスタイルからおこるのだと思います。同じ出来事に遭遇しても、人によって異なる感情を抱くのはそれぞれがもつライフスタイルの違いからくると考えられます。

 

経験の後に行う意味づけが、ライフスタイルをカタチづくる元となってその人に還元されます。こうやって、私たちは様々な出来事を経験し、意味づけを行い、それによってライフスタイルを少しずつ更新しながら生きているのではないでしょうか。

 

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    意味付けとライフスタイル

 

だとすれば、子どもが遭遇する出来事に対して親は影響力をもち得ますが、意味づけには影響力をもち得ないのではないでしょうか。反面教師という言葉があるように、客観的には望ましくない出来事に遭遇したとしても、その出来事をプラスの経験として意味づけすることはできます。アドラーが言うように、自分のライフスタイルは自分で決めているのです。それはたとえ年齢がどんなに小さくてもです。

 

強烈に覚えているエピソードが早期回想でしたが、板谷さんのエピソードにしても私のエピソードにしても、出来事そのものは特殊なものではなく、ごくありふれた日常の出来事です。おそらく、私達は日々の出来事を経験する積み重ねによって、意識的であれ無意識的であれ意味づけを行い、日々、ライフスタイルを更新し続けているのだと思います。板谷さんにしても、早期回想されたエピソードだけが板谷さんたらしめているのではなく、これまで生きてきたすべての経験が板谷さんのライフスタイルをつくりあげたのであって、どんなに真似ようとしても板谷さん以外の誰も板谷さんのライフスタイルに近づくことはできないのです。板谷さんに限らず、私もあなたも誰もが自分にしかないライフスタイルをもっていて、そのライフスタイルは自分で決めたものなのです。

 

時間的展望という点と線の生き方

ここまで書いて、アドラーのライフスタイルについてのモヤモヤは晴れたのですが、もう少し探求できそうな気がしたので、もうしばらく自分の中でこのテーマを抱えることにしました。そして、アドラーのライフスタイルの理論は、ユダヤ系心理学者であるクルト・レヴィンが築いた時間的展望理論と根幹は同じであることに気づきました。時間的展望とは、現在から再構成された過去や現在から予期された未来を含んで統合した「今」を指します。私達は点としての今を生きているのではなく、過去と現在と未来をつないだ線としての今を生きているという考え方です。

 

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     時間的展望

 

ライフスタイルが過去の出来事の意味づけによって形成され、ライフスタイルには未来の自分である自己理想を含むということは、ライフスタイルもまた、現在の点としてあるのではなく、現在と過去と未来をつなぐ線としてあることを意味しています。これは、時間的展望の考え方と同じです。

 

時間的展望は、現在の行動に深く関わっています。意味ある過去と未来の目標という視点で今を見つめることで、困難な状況にあってもそれを乗り越える行動をとることができると考えられています。つまりは時間的展望の考え方をもつことは、行動への後押しになるということです。どんな状況であっても、その状況の捉え方は自分の考え方次第であり、それが行動に反映されるということです。

 

私達は、今という点を精一杯に生きながら、過去と未来をつなぐ線としての今をも生きることで、自分の行動もライフスタイルも変えることができるのです。

 

アドラー心理学のライフスタイルを学んだことで、自分の行動がどうやって生み出されているのか、自分の過去の経験を今にどういかしていけるのか、目標をもつことがなぜ大切なのかがわかりました。

 

今回は自分の中でアドラー心理学のライフスタイルを消化するのに時間がかかって、なかなか言語化できませんでしたが、あきらめずにテーマを抱え続けてよかったと思います。思うようにはならない事情は色々あっても、先人が残してくれた考え方を学ぶことで、すべてのことには意味があると希望をもって生きていけます。いくつになっても学び続けて、考え方をアップデートしていこうと決意をあらたにしました。

発見と学びの旅は死ぬ直前まで続けようと思います。