わざわざ行く旅

10月8日(日)、まだ薄暗い中、早朝5時40分発のバスで高松駅を出発しました。大阪駅でバスを乗り換えて向かった先は京都府日本海側にある京丹後市。3連休とあって高速道路の渋滞に巻き込まれ、京丹後市に住む友人の尾崎さんと落ち合えたのは13時30分頃でした。高松駅を出発してから実に8時間も経過していました。長い長い道のりでした。

 

そんな長い道のりをかけた行き先の京丹後については、その昔に訪れた天橋立以外に何があるのかも知らず、事前に調べることもなく向かいました。2泊3日の京丹後への旅のお宿は6月にママになったばかりの尾崎さん宅。東京からやってきた共通の友人である麻美ちゃんを含めて、京丹後で3人での再会を果たしました。

 

 

記憶から薄れる景色と味

 

京丹後では、尾崎さんの車に乗せてもらって透明度の高い日本海の海岸へ行きました。遮るものが何もなく目の前に広がる広大な海と潮の香りで、心に溜まった澱が洗い流されるような気がしました。尾崎さん宅から見える夕焼けの海もとてもきれいでした。

 

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         京丹後から見渡す日本海

 

尾崎さんのアレンジのおかげで、なぜ京丹後にこんな店があるのと思えるような名店での食を味わうことができました。牧場でとれたミルクを使った濃厚なソフトクリーム。フランスで修行して京都市内のホテルのオーナーパティシエが京丹後に開いたケーキ屋さんのとろけるようなチーズケーキ。ナポリで開かれたナポリピッツァ職人の世界大会で2位に入賞したピッツァ職人がいるお店「uRashiMa」の極上ピッツァ。関西の食通の間で名の通った「縄屋」さんの見た目も味も上品な魚菜料理。地元で採れた鮮度の高い食材が腕の磨かれた職人の手にかかった食にかなうものはありません。

 

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                                                  uRashiMaの極上ピッツア

 

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               縄屋さんの魚菜料理

 

景色も味も満足した旅でしたが、1週間たった今、京丹後への旅の記憶として残っているものを聞かれたら、残念ながらそれは景色でも料理でもありません。ですから、もう一度あの景色を見るために、もう一度あの味を求めて京丹後にわざわざ行きたいかと聞かれたとしたら、答えはYESではありません。美しい景色も美味しい料理も京丹後以外でも代替できます。

 

記憶に残る出会った人達

 

京丹後の旅の思い出として記憶に刻まれているのは、景色でも食でもなく、出会った人達です。

 

尾崎さんのコーディネートのおかげで、京丹後に移住してきた人や京丹後にUターンしてきた若い人達と出会うことができました。会話する中で、これからどんなことをやろうとしているのか、それはなぜなのか、どんな価値観をもっているのか、どんな課題があるのかなどを聞くことができました。それぞれの人の話も興味深かったのですが、何よりも注目したのは若い人達のつながり力とオープンさです。

 

京丹後に滞在中、尾崎さんのコーディネートで京丹後に移住してきたAさんのお宅にお邪魔してAさんにお会いすることになっていました。Aさん宅に行くと、約2週間前に京丹後に移住してきてAさん宅の隣りに新しくコワーキングスペースをつくる予定のBさんもやってきました。

 

翌日の午後は竹野酒造さんに見学に行く予定になっていたので、尾崎さんがBさんに「明日の午後、竹野酒造に行くけど良かったら一緒に行く?」と聞きました。Bさんは「行ったことがないので一緒に行きます」と答えて、一緒に行くことに加えて尾崎さん宅でランチを一緒にとることがその場で決定しました。

 

Aさん宅を訪問した日の夜は、京丹後市在住のuber社員のCさんが尾崎さん宅にお越しになって、3日フライングしての尾崎さんの誕生日を一緒にお祝いしました。ここでも尾崎さんが「明日、京丹後に移住してきたばかりのBさんがうちで一緒にランチを食べるけど、Cさんもランチ来る?」と声をかけて、Cさんのランチジョインが決定しました。 

 

翌日の尾崎さん宅でのランチで、BさんとCさんがご対面してつながることに。Bさんが「コワーキングスペースにいつでも遊びに来て」と言っていたので、コワーキングスペースにてCさんに新たな人とのつながりがもたらされることが予想されます。

 

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         尾崎さん宅でのランチ風景

 

Bさんと一緒に向かった竹野酒造では、竹野酒造のDさんから、酒蔵の案内とお酒の銘柄の説明をいただき、試飲もさせていただきました。Dさんから海外にも竹野酒造の日本酒を輸出していると聞いたBさんは、「海外に日本酒を紹介している友人がいるので今度連れてきます」と申し出ていました。

 

わずかな滞在期間中に若い人達がどんどんつながっていくのを目の当たりにして、このつながりから面白い変化がおきそうな期待を感じずにはいられませんでした。ただ会って話を聞いただけでなく、オープンマインドでどんどんつながっていく人達だったからこそ、旅の記憶として強く残ったのだと思います。

 

 

わざわざ行く

わざわざ行くという行動がおこるのはそこにしかない代替のきかないコトがあるからです。京丹後への旅でそのことをはっきりと認識できました。

 

そこにしかない代替のきかないコトとは何でしょうか。例えば、広島の原爆ドームを見た時の突き動かされる衝撃。例えば、直島の地中美術館を見た時の美術館の概念を覆される感覚。例えば、沖縄の海を見た時のもう一度見に来たいと思う気持ち。

 

唯一性の高いモノから受ける圧倒的な体験以外で代替のきかないコトは、そこに住む人に会うことでしょう。私がはるばる時間をかけて京丹後まで行ったのは会いたい人がそこにいたからでした。大切な友人である尾崎さんと生まれて4ヶ月の美和ちゃんに会いに行こうと思い、さらには麻美ちゃんも来るとなれば、行かない理由を見つけることはできませんでした。

 

わざわざ京丹後まで行って良かったと思っています。その理由は、尾崎さん、美和ちゃん、麻美ちゃんと会えたことはもちろんですが、尾崎さんにつないでもらった京丹後で面白いことをおこしそうな人達に会えたからです。

 

わざわざ行くという需要を掘り起こすなら、そこに住む面白いことをやっている人と交流するという視点も必要ではないかと思えました。わざわざ京丹後まで行ったおかげで、わざわざ行く旅について体験的に学ぶことができました。次はどこにわざわざ行くことになるのか楽しみです。

アートがつくる地域の変化

 

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豊島から見た瀬戸内海

 8月19日と9月2日、瀬戸内海の豊島にある島キッチンにこえび隊としてお手伝いに行ってきました。

 

島キッチンは古民家を改修してつくった瀬戸内国際芸術祭2010の作品のひとつです。豊島の食材を使い、丸の内ホテルのシェフと豊島のおかあさん達が恊働で開発したオリジナルメニューを提供しています。こえび隊は瀬戸内国際芸術祭のボランティアサポーターの名称です。

 

こえび隊として参加することで、瀬戸内国際芸術祭が島に大きな変化をもたらしたことを感じ、瀬戸内国際芸術祭の本質を探求しました。

 

 

瀬戸内国際芸術祭

瀬戸内国際芸術祭は、瀬戸内海に浮かぶ島を会場として3年に1度開催される現代アートの祭典です。2010年に初めて開催され、2019年の開催も決定しています。直近で開催された2016年の総来場者数は104万人にも及びました。

 

日本各地で芸術祭が行われていますが、瀬戸内国際芸術祭の特徴のひとつには島が開催会場になっていることにあります。会場に行くための交通は船です。陸海空の交通手段のうち、船に乗る機会はそうそうないのではないでしょうか。船に乗ること自体がいつもとは違う経験ができる楽しみになります。島内の交通はバス、徒歩、レンタサイクルが主流です。バスの本数も限られているため、徒歩やレンタサイクルで回る方が多くいます。車の往来が少ないため、島にいると聞こえてくるのは鳥のさえずりです。車のエンジン音が生活音という社会に暮らしている者には、島に入ると非日常の世界に来た感じがします。島独特の環境が瀬戸内国際芸術祭を色づけているのだと思います。

 

瀬戸内国際芸術祭は3年に1回の開催ですが、開催会期中以外にも一部の作品は公開されていて、常に誘客できる仕組みになっています。

 

島という環境

私がこえび隊として豊島に渡ったのは会期中以外の期間でしたが、高松港から豊島に渡る定員70人の船はほぼ満席でした。帰りに乗る予定の便では積み残しが発生する可能性があるからと、どうしても予定時刻の船に乗らないと困るかどうかの確認がありました。夏休み期間ということもありますが、会期中以外も島に渡る観光客がコンスタントにいる現実を知りました。

 

船に乗っている客層は、一人、友人、カップル、夫婦、家族連れと様々でしたが、若い女性の割合が高いように思いました。アートへの関心が高いのは女性の方が多いのでしょうか。

 

高松港から豊島までは船で1時間弱かかります。そう短くない時間です。8月19日の行きの船では船内の椅子に座りました。船内ではうつむいてスマホの画面を見ている人を見かけました。人数の違いはありますが、都心の電車の中と同じような光景でした。

 

9月2日の行きの船では甲板に立っていました。甲板にいくつかの椅子があり、豊島に観光で向かう人達が座っていました。その中に20代とおぼしき3人連れの女性がいたのですが、彼女達の船上での過ごし方に驚きました。豊島につくまでの1時間弱の間、3人のうちの誰一人として一度もスマホの画面を見ることがなかったのです。スマホで写真を撮っていましたから、スマホを持っていないわけではありませんでした。

 

都心での電車移動の光景から推測すると驚くことではありましたが、瀬戸内の島に向かう船の移動中のできごととしてはごく自然なことでした。なぜなら、私自身も甲板から見る瀬戸内の風景にみとれて50分という時間がとても短く感じたからです。多島美と呼ばれる瀬戸内の風景は船が進むに連れてその景色を様々に変えていき、決して見飽きることがありません。スマホの画面を見るよりもずっと心を奪われる景色でした。島に渡る船の上から、非日常という旅の醍醐味をたっぷりと味わうことができるのです。

 

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                             豊島に向かう船から見える瀬戸内の風景 

 

豊島の家浦港から島キッチンまでは歩いていける距離ではないので、こえび隊のワゴン車に乗せてもらいました。センターラインのない道を走る車の窓から景色を見ていましたが、「何もない」というのが正直な感想でした。畑と民家以外にお店らしきものはほとんど見かけませんでした。信号もひとつも見かけませんでした。木々や草の緑と民家と道路のグレーが島で見た大部分の色でした。その中で、瀬戸内国際芸術祭の作品案内板のブルーが一際目立っていました。

 

そんな島に芸術祭の開催期間以外でも、自転車や徒歩で島の中をめぐる人を呼び込んでくるのはすごいことです。

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レンタサイクルで島をめぐる人達



 

島の価値観

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島キッチン

私がお手伝いした島キッチンは11:00~14:30までランチを提供し、15:30までドリンクを提供しています。島キッチンにはテーブル席とカウンター席があります。テーブル席は、頭に気をつけてくださいと声かけが必要なくらいに低い天井の下に座卓と座布団が並べられたものです。座卓は不揃いなので、おそらく島で使われなくなったものを集めたのだと思います。暑い時期でしたので、扇風機もいくつか並べてあります。扇風機も不揃いです。テーブル席はすべて窓際に配置されていて、網戸ごしに隣りに広がる円形の屋根を冠したテラスが見渡せます。カウンター席はオープンな調理場を囲むようにつくられています。

 

島キッチンオープンの11:00の前には、すでにお客様がやってきて外で待っていました。ランチの提供時間は途絶えることなくお客様が次々にやってきて、ピーク時には外に並んで待っている状態も続きました。予約してやってくるお客様もいます。島キッチンにやってくる客層も女性の割合が多い印象を受けました。海外からのお客様も複数組いらっしゃいました。

 

島キッチンの中に世界地図が貼られていて、どこから来たかをピンで指していくようになっています。日本全国からお客様がやってきているのはもちろんのこと、ヨーロッパからもたくさんの人がやってきています。もちろんアジアからのお客様も少なくありません。島キッチンにやってきたお客様の多くがこの地図の前で足をとめていきます。

 

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島キッチンに貼られている世界地図

 

テーブル席にお客様をご案内すると、誰もが「わあ」と喜びの声をもらします。テーブルも座布団も洗練されたスタイリッシュなものというわけではありません。都心のレストランであれば、店内の内装やテーブルや椅子などの家具のお洒落さに目を奪われますが、島キッチンでは窓から見える開放的な景色に心を奪われるようです。

 

前菜のサラダとオクラを運んだ時、「わあ、オクラ」と喜ばれるお客様がいました。これにはちょっと驚きました。オクラは豊島で採れたものではあるけれど、普通にスーパーでも見かける野菜です。日常的にあるものに対して喜んでもらえるのは、島キッチンという非日常の空間によって特別な体験の意味を帯びるからでしょうか。

 

ピーク時には席は満席になり、注文の品を運ぶことや、お客様からの追加注文の聞き取りが遅くなってしまうことがあります。「お待たせしてすみません」とようやくお客様の対応ができた時に、お客様から嫌な顔をされることは一度もありませんでした。ゆったりとした島の時間の流れの中で、お客様もゆったりと時間を過ごす価値観になっているように感じました。

 

こえび隊

会期中以外のこえび隊の活動としては、島キッチンのお手伝いの他には、展示作品の受付があります。作品会場の開け閉めを行い、作品の入り口に座って、鑑賞に来られた方から費用を徴収し、時間帯ごとの来場者数をチェックし、最後に一日の集計を行います。受付マニュアル、受付集計用紙、電卓、虫除けスプレーなどがセットになったバッグを渡され、1作品1人体制で受付を行います。受付担当の方の話を聞いていると、来場者の方と言葉を交わすのが楽しみのようです。時には一人も来場者がいないこともあり、そういう時の方がしんどいと言っていました。

 

こえび隊活動をする時は、こえび隊の名札をつけて、事務局からいただいたこえび隊専用の船のチケットで乗船します。他のお客さんが乗船した最後に、船の係員の方が「じゃあ、こえびさんどうぞ」と言われてから乗船します。瀬戸内国際芸術祭の開催会場になっている島では、こえび隊という存在が十分に認知されていることを知りました。

 

特別なスキルがなくても、老若男女誰でもこえび隊活動ができるように仕組み化されているのはすごいことだなと思いました。一方で、紙で集計した来場者数等は事務局の人が電子化のために入力作業をしていると聞いて、その部分はIT化して浮いた労力をもっと本質的な活動に使うとよいのではとも思いました。

 

私はこえび隊としてはまだ2回しか活動していませんが、他のこえび隊の方は何度もリピート活動しているようでした。お互いにすっかり顔馴染みになって、移動の間や集合場所でのおしゃべりを楽しんでいるようでした。年齢層も幅広く、男性も女性もいます。年配の方にとっては、こえび隊の活動が生きる活力を生んでいるのではないかと感じるほどでした。

 

私がこえび隊に参加するきっかけになったのは、「せとうちばなし」という瀬戸内国際芸術祭に関するトークイベントに参加したことでした。そこで瀬戸内国際芸術祭が始まるまでの話を聞いたのですが、最も印象深かったのが、四国本土の香川県に住む県民が島に目を背けていたという話でした。瀬戸内国際芸術祭が始まる前の島の課題は、人口減少や高齢化による活力の低下だけでなく、同じ香川県の中で四国本土と島が分断されていたことにもあったようでした。

 

こえび隊活動に参加してみてわかったのは、瀬戸内国際芸術祭においてこえび隊活動がとても重要な意味をもっているということでした。なぜなら、四国本土の香川県民がこえび隊になることで、四国本土と島の交流が生まれるからです。さらには、こえび隊になることが市民性の創造につながるからです。

 

アートがつくる地域の変化

島キッチンでまかないご飯を食べながら店長と話をしました。瀬戸内国際芸術祭開催による豊島の変化について聞いてみたら、それはもう劇的な変化があったそうです。瀬戸内国際芸術祭が始まる前は、島の外から来るのは釣人や海水浴にくる人がわずかにいただけだったそうです。今どうなっているかというと、それは島キッチンの繁盛ぶりを見れば言わずもがなです。

 

これだけ大きな変化を島にもたらした瀬戸内国際芸術祭のことをもっと知りたくなり、北川フラムさんの「アートの地殻変動」を読みました。やはり瀬戸内国際芸術祭は観光客誘致のためのアートフェスティバルではありませんでした。

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北川フラム氏の書籍

 

この本に書かれている中で、瀬戸内国際芸術祭のポイントになると感じたことを以下に抜き出しました。

・瀬戸内国際芸術祭はそこに暮らす人のために、地域を再生させる目的をもっている。

・アートは何の役にも立たないけれど、周囲の人たちのクリエイティビティを引き上げ、可能性を喚起する

・現在の都市化、グローバル化した生活形態、価値観を変えていくことと瀬戸内が元気になっていくことは同じこと。

・美術には祝祭性と恊働性がある。

・瀬戸内国際芸術祭のアートは、その土地の空間、時間が見えるような仕掛け。

・美術作品は空間感覚なので、その場所に行かないと伝わらない

・瀬戸内国際芸術祭に多くの人が来られる理由は、これだけ広範な地域で、人が海を渡っていることが要因のひとつ。海をわたることによって日常をリセットする。プロジェクトそのものの中に旅が内包されている。

・芸術文化による地域づくりは、最後には、一人ひとりが市民としてどう動くかにかかっている。

 

 

このポイントを踏まえて、瀬戸内の島のひとつである豊島をモデルにアートがつくる地域の変化を図でまとめたものが以下です。

 

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アートがつくる地域の変化


 

こうやってまとめてみると、瀬戸内国際芸術祭が単なるアートフェスティバルでも観光客誘致でもなく、地域のエコシステムをつくっていることがわかります。

 

瀬戸内国際芸術祭の仕組みもそのすごさも、実際にこえび隊として活動してみたからこそ理解できました。真の理解は現場に身を置くことからを今回も痛感しました。

Maker Faire Tokyo2017で感じたメイカーの意味

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2017年8月6日、痛いほどの真夏の陽射しが降り注ぐ中、東京ビッグサイトで開催されたMaker Faire Tokyo2017に行ってきました。メイカームーブメントを肌で体感したいと思っていたところ、ものづくり特化型メディアfabcrossの越智プロデューサーにMaker Faire Tokyoの招待状をいただく幸運に恵まれ、意気揚々と出かけていきました。

 

Maker Faire Tokyoはメイカームーブメントのお祭りで、選考された今年の出展者は約450組。受付でもらったプログラムガイドは15pからなり、記載された多彩な出展内容からもメイカームーブメントの一端を感じることができました。

 

 

Maker Faireから見えてくるもの

広大な会場には数多くの来場者が行き来していて熱気を感じました。展示内容は、出展者自身がMakeしてまだ世の中に出ていないものが多く、目新しいものと沢山出会えるのが特徴です。選考を経ているので一定のクオリティが保たれていて、こういう発想もありかという視点のインプットの場としても最適でした。体験型の展示が多く、言葉や写真よりも体験する方が何倍も対象物のことがよくわかります。体験する来場者と出展者との間には頻繁にコミュニケーションが生まれていました。

  

一堂に集まった出展内容を見ると、Makeの領域が実に幅広いことに気づきます。デジタルと掛け合わせることで新しく作り出されたものが出展されていて、ファッション、手芸、フード、モビリティ、音楽など、幅広い分野にデジタルMakeの波が押し寄せていることを感じました。

 

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         ファッション×デジタル

    身体の動きに合わせてデザインが変わるTシャツ 

 

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         モビリティ×デジタル

   回転にあわせてタイヤの見え方が変わる自転車 

 

また、ロボットとVRの展示物が目立ち、それらの流れがきていることも感覚的につかむことができました。VRはスマホタブレット3Dプリンタでつくった箱にはめこんで、回転の向きにあわせて表示される内容が変わるものが多くありました。中には段ボールで枠をつくっているものもあり、今あるものを組み合せるだけで、まだまだできることがあると知りました。

 

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      スマホを段ボールに埋め込んだVR装置

この装置を向ける方向によってスマホの画面で見える映像が変わる

 

 

大人から子どもまで

小学生以下の子どもも沢山来場していました。エデュケーション&キッズゾーンがあり、子どもが参加できるワークショップやプログラミング教室も開催されていて、子どもが楽しめる要素もふんだんに盛り込まれていました。

 

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       子ども向けプログラミング教室 

 

遊園地に行くより楽しそうだなと思うと同時に、Maker Faireが夏休みの時期に開催される意味がわかった気がしました。というのも、夏休みのお決まりの宿題の工作は、親にとっても子どもにとっても頭の痛いものでしたが、Maker Faireに来ると、つくることに対するモチベーションが喚起される気がするからです。

 

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   子どもの名前入りの型を真空成形でつくっている様子 

 

子ども向けのコーナーはあるのですが、キッザニアのように子どもだけが対象ではなく、大人も子どもも対象というのがMaker Faireの意義深さです。大人と子どもが同じ空間にいて、大人が楽しんでいる姿を子どもが見ることがMakeの意味を子どもに伝える最良の方法だからです。何度も迷子のお知らせを告げる会場内放送が流れました。人ごみの中で単純にはぐれたというよりは、子どもが興味のままにドンドン進んでさまよってしまったのか、大人が夢中になっている間に子どもとはぐれてしまったのかのどちらかではないかと私は推測しました。

 

子どもの教育格差は文化資本格差によるという報告があります。文化資本格差とは、例えば美術館や博物館などに連れて行って、文化的な素養を身につける機会の有無が格差となって表れることを指します。これからますますメイカームーブメントが広がるとしたら、Maker FaireのようなMakeする楽しさを知る機会の有無が教育格差となって表れることになるかもしれないという思いが頭をよぎりました。

 

 

テクノロジーの民主化の意味

メインステージでは、いくつかのプレゼンテーションが行われていました。私は「Prototype to Product ープロダクトをつくるということ」のパネルディスカッションを聴きました。

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情報科学芸術大学院大学の小林先生から、メイカームーブメントの背景にテクノロジーの民主化があるとの説明がされました。

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これまでは何かをMakeするのに必要なハードやソフトにアクセスできる人は限られていました。会員制のものづくり工房ができたり、マイコンボードの開発ソフトウェアが無償公開されたりと、Makeするためのテクノロジーは誰に対しても門戸が開かれるようになりました。これがテクノロジーの民主化です。これによって誰もが思いついたアイデアをプロトタイプすることができる時代になりました。

 

パネルディスカッションのテーマはプロトタイプからプロダクトとして世の中に送り出すハードルをどう乗り越えるかでしたが、私はテクノロジーの民主化が意味するところに興味をひかれました。テクノロジーの民主化によって、今まではアイデアのままに埋もれてしまっていたものをカタチにして見える化できるようになりました。つまり、私たちは、イデアをアイデアのままで終わらせずにすむ自由を手に入れたとも言えるのです。

 

3人のパネラーは、それぞれのきっかけをもとにアイデアを思いつき、それをカタチにしたメイカーでした。この3人はMakeできる自由の権利を行使した人達です。今の時代でもアイデアを思いついたけれどカタチにまではしない人は沢山います。その理由はカタチにするハードルが高いからではありません。人間は自由を求めますが、自由を手に入れても、行使することに伴う覚悟をもって自由になる人と自由になることを放棄する人がいます。テクノロジーの民主化は誰もがメイカーになれることをもたらしたと同時、メイカーになる人かならない人かを浮かび上がらせる意味も持っていると思いながら、パネルディスカッションを聴いていました。

 

メイカーになるために必要な条件には学ぶこともあげられます。ハードにもソフトにもアクセスは容易になりましたが、実際にアクセスするためには、そのための基本スキルを学ばなければなりません。テクノロジーは常に進化を続けているので、それにあわせて学び続けることも必要です。学び続けることを良しとできなければメイカーになるのは難しいでしょう。

 

 

メイカーという生き方

このパネルディスカッションでは、自分のためにものづくりをするメイカーではなく、他者が使うためにものづくりをするメイカーを対象にしていました。そのため、プロトタイプからプロダクトにジャンプアップさせる視点がテーマでした。興味深かったのは、プロトタイプができたら応援してくれるコミュニティをつくるという考え方でした。

 

小林先生が注目しているメイカーは辺境にいる人という提示がありました。

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辺境にいるメイカーは、プロモーションのために人やお金を十分にかけることは難しいに違いありません。プロトタイプができてから実用化や量産化には、ものづくりの面でもさらなる壁があります。メイカーが頑張って壁を乗り越えてプロダクトとして世に送り出すのではなく、「クラウドファンディングなどのプロセスを経る過程で、応援してくれるコミュニティをつくってコミュニティと一緒にプロダクトに育てていきたい」と言ったのは、株式会社OTON GLASS代表取締役の島影さんでした。それを受けて、小林先生が、クラウドファンディングで製作にこぎつけた映画「この世界の片隅に」に言及して、「映画のシーンの中で一番感動したのがエンドロールで流れたクラウドファンディングの支援者の名前だった。あれを見て、自分も支援したかったと思った」と言いました。

 

Makeの先には使ってくれる人に届ける必要があります。Makeが完成する前段階から、届けたい人とつながれるのもテクノロジーの民主化のおかげです。ものがあふれる時代、必要不可欠なものは一通り行き渡りました。そんな中でさらに手元におきたいものがあるとしたら、誰かの手によってMakeされたものではなくて、自分もMakeの一端を担ったものかもしれません。自分が一端を担ったものであれば、周囲に語りたくなるのではないでしょうか。応援者の語りによって少しずつ認知が広がり、いつの間にか多くの人が知るところとなり、結果として多くの人に届けられるというのが今の時代のプロモーションのあり方だと思います。

 

今の時代にメイカーとして生きるためには、Makeするだけではなく、周囲を巻き込む力が必要だと言えるのではないでしょうか。辺境にいるメイカーにとっては特に。

 

 

メイカースペースの価値

メイカーの拠点であるメイカースペースの価値についても考えてみたいと思います。

 

多くのメイカーはものづくりの拠点としてメイカースペースを使っていると思います。私もTechShopというメイカースペースに行くことがあり、そこでメイカーの人達が工作機械を使って熱心にMakeしている様子を見かけます。

 

一見すると、メイカースペースは工作機械へのアクセスだけを提供しているように見えますが、実際にはメイカーに必要な学びの支援も提供しています。メイカーが参加するオンライングループは、自分が得たMakeに関する知識を共有したり、質問を投げかけたりと、メイカー同士で相互に学び合う場になっています。自分のノウハウとして独占しようという雰囲気はなく、ノウハウをオープンにすることでメイカームーブメントを盛り上げていこうという雰囲気があります。

 

工作機械へのアクセスと学びの場の提供に加えて、プロモーション支援をメイカースペースができれば、メイカーにとってのメイカースペースの価値がより上がると感じました。考えてみれば、Maker Faire Tokyo2017もメイカーのプロモーション支援の場でもありました。

 

 

メイカーの時代の到来

「メイカームーブメント」の言葉は随分前から聞いていましたが、単なる言葉の流行ではないことをMaker Faire Tokyo2017の会場に実際に足を運んで実感しました。

 

メイカーは、テクノロジーの民主化によって手に入れた自由を謳歌する生き方を選んだ人達です。自由に覚悟が伴うことは承知の上で。自由を謳歌しながら学び続けるメイカーが確実に増えていることを肌で感じました。

 

今はまだメイカーの台頭のインパクトを認識していない人もいるかも知れませんが、メイカーの時代は確実にやってくるでしょう。メイカーとして生きる人が珍しくなくなって、メイカームーブメントという言葉がなくなった時、その時の世界は今よりも面白くなっているに違いない。そう確信させてくれたMaker Faire Tokyo2017でした。

 

ロボットと共存する社会

社会のデジタル化が進む中での重要なキーワードである「ロボット」に興味をもって、適当な本がないかとを探していたところ「日・米・中 IoT最終戦争」を見つけました。今回は、この本の中で紹介されているロボット技術をまとめて紹介するとともに、ロボットと共存する社会について考えてみたいと思います。

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日本のロボット産業

ロボットは産業用ロボットと家庭用ロボットに大別され、日本で使われているロボットの8割は産業用ロボットだそうです。さらに驚くべきことには、日本はロボットマーケットの世界シェア60%を占めているロボット王国なのだそうです。国内には100社を超えるロボットベンチャーが林立していて、様々なロボットが開発されています。ロボットと共存する社会はすぐそこまで来ているようです。

 

産業用ロボット

産業用ロボットは、人口減少、高齢化、深刻な人手不足などの背景から導入が進んでいます。ロボットは24時間休むことなくフル稼働するし、命令には絶対服従で文句も言いません。人件費の大幅な抑制につながるとなれば、工場での作業が人間からロボットに置き換わるのは必然以外の何ものでもありません。

 

産業用ロボットとして、はじめに紹介するロボットはパワードスーツです。人体に装着して活動を補助するロボットです。ロボットといっても単体で動くものではなく、人間の機能拡張するカタチもあります。

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次は、巨大通販会社のアマゾンの物流施設での棚ロボットです。通販商品をあれだけ短時間で届ける裏側はロボット技術で支えられていたというわけです。このロボット導入による人件費の削減効果は最大で1000億円に達するとも言われているそうです。

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次は、アスクルの物流施設でのピッキングロボットです。モノを見分ける目とつかんで運ぶ手の機能をもったロボットです。

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産業用ロボットは、言葉だけでイメージをつかむのはなかなか難しいものですが、動画で見ると、ここまでロボットが現実社会に入りこんできているのかと驚かされます。産業用ロボットの目的は効率化に尽きますから、目的とする機能をどれだけ速く正確に行えるかがすべてです。ロボットには行えない精緻な作業や感性を伴う作業でない限り、決まった作業の速さや正確さでは機械が人間を超えるので、ロボット化はますます進むと考えられます。

 

家庭用ロボット

家庭用ロボットは主に人とのコミュニケーションのために使われています。

 

全国300ヶ所の高齢福祉施設に導入されているのが、コミュニケーションロボット「パルロ」です。顔と名前を認識し、歌ったり、踊ったりもできるそうです。[高齢福祉施設向けモデル:670,000円]

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東芝は、2020年の東京オリンピックに向けて、日本語、英語、中国語を話すことができるコミュニケーションロボットを開発しました。人間らしい容姿をしたコミュニケーションロボット「地平ジュンコ」は、一見すると、ロボットとは気づかないくらいです。

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その他にも家庭におくことを想定したコミュニケーションロボットがいくつかあります。

 

「タピア」 目がディスプレイに表示されていて、必要な時には情報を表示し、タッチで操作できるようになっています。[本体価格:105,840円]

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「ロボホン」 携帯電話と一体になった人型ロボットで、カメラ機能もついています。[本体価格:198,000円]

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「キビロ」 人口知能とつながって、好みや感覚を蓄積してコンシェルジュ的な役割を果たしてくれます。[本体価格:150,000円]

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コミュニケーションロボットと一口に言っても、そのカタチは様々です。コミュニケーションロボットの場合は、対話の自然さという機能面もさることながら、愛着がもてる外見であるかも非常に重要な要素であることが動画を見るとわかります。

 

 

ロボットと共存する社会

人手不足とコスト削減を背景に、工場でのロボット化はこれからもますます進むはずです。産業用ロボットによって工場が全自動化された先のロボットと共存する社会で人間が行うべきは、異常の検知とその対処になると考えられます。

 

現状では、コミュニケーションロボット1台の値段が10万を超えていますが、価格が下がれば、家庭へのロボット普及が一気に進む可能性もあります。そうなると、家庭でもロボットと共存する生活がやってきます。

 

コミュニケーションができるロボットが家庭に入ってくることで、人間がロボットとのコミュニケーションに閉じこもってしまうのではなく、ロボットが介在することで人と人とのコミュニケーションの可能性が広がっていくようになってほしいと思います。ロボット単体での機能やデザインだけでなく、家庭の中でのロボットの役割のデザインがロボット普及の鍵だと思います。

IoT化される社会の変化を読み解く

私たちは今、時代の転換点にいると言われます。それはおそらく間違いありません。色々な観点での転換点にありますが、情報通信技術に牽引される変化について、何がおこっているのかをまとめてみます。「IoTとは何か」に重要なポイントがほとんどつまっていましたので、ここに書かれている内容をベースにまとめました。

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第4次産業革命

時代の変化を象徴するキーワードとして「AI」がクローズアップされまずが、「IoT、ビッグデータ、AI」の3つがひとつにつながって第4次産業革命と呼ばれる大きな変化の流れを作り出しています。この3つが何を表しているのかを簡単に紹介しましょう。

 

(1) IoT: 現実世界のデータ化

「IoT=モノのインターネット」と言われますが、これでは何だかよくわかりませんよね。IoTは、 モノをインターネットにつなげて現実の世界を情報空間で扱えるようにするための技術です。

 

例えば、温度を測るセンサー機能のついたチップを洋服につけると、その洋服を着ている人の温度を自動的にデータ化することができます。温度を測るセンサー、センサーのついたチップからネットワークを経由してインターネット上のある場所にデータをためる仕組み全体のことをIoTと呼んでいます。

 

従来技術では、人の温度をデータ化しようとすると、体温計でその人の熱を測り、インターネットにつながったPCやスマホのアプリに温度を入力する必要がありました。IoTによって、体温計で測ることや温度を入力することが不要になります。赤ちゃんにこの洋服を着せるだけで、まだしゃべれない赤ちゃんの発熱に気づくこともできるようになります。

 

(2) ビッグデータ:現実世界を情報空間で表すデータ

IoTが様々な場面に適用されると、膨大なデータがインターネット上の情報空間に蓄積されるようになります。このデータをビッグデータと呼んでいます。

 

例えば、温度センサーで5分おきに熱を測るとすると、1日で288個の温度測定データが蓄積され、1年では105,120個にもなります。保育園に子どもが100人いるとすると、1年で10,512.000個の温度測定データが蓄積されることになります。

 

ビッグデータはデータの量だけでなく種類が多いことも含意します。温度だけでなく、他にも様々な種類のデータを蓄積することで、情報空間を現実世界にできる限り近づけることができるようになります。

 

(3) AI: 現実世界をどのように制御するかを判断

ビッグデータをもとに、状況に応じた最適な判断を行うものがAIです。AIの進歩はビッグデータを蓄積して処理できるようになったコンピュータ技術の進歩と連動しています。

 

ごく単純な例で言えば、保育園の子ども全体の温度があがれば部屋が暑くなっていると判断し、ある特定の子どもの温度だけが普段より高くなれば、発熱の可能性があると判断することができます。部屋が暑くなっていると判断すれば、その情報を空調機に送って空調を自動的にコントロールしたり、発熱の可能性があると判断すれば、その情報を保育士や保護者に知らせるといったことが可能になります。

 

この3つが連動することによって、入力、判断、出力のすべてを人手を介することなく機械的に処理することができるようになります。

 

AIで判断した先の制御の部分が、空調機のようにすでに現実世界にあるものであればこの3つで処理が完結します。制御部分が現実世界にまだないものの場合には、制御にロボットを使うことでAIの判断結果に従って現実世界を制御することになります。ロボットと言っても、必ずしも人型のものばかりではなく、制御の種類によってアーム型ロボットであったり移動型ロボットであったりとカタチは様々になります。

 

いずれにしても、今まで人が行っていた判断、制御が機械化されるというインパクトが第4次産業革命と呼ばれるものです。イメージ図で表すと下記になります。

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このインパクトの実例として、種をまく、水をやる、雑草を抜くといったことをすべて自動化するFARMBOTの事例がYouTubeにあがっています。この仕組みはたった2人で開発したそうです。世の中はここまで進んでいます。

 

www.youtube.com

 

 

第4次産業革命に対する見方

第4次産業革命と呼ばれるものが何かがわかったとして、どうしてそんなに機械化を進める必要があるのかという疑問がわいてきます。人が行っていたことが機械化されるということは人がいらなくなるということで、機械に仕事が奪われると話題になる所以もここにあります。

 

都市では2020年にオリンピックを控えていることもあり、第4次産業革命を都市サービスの高度化に活用しようという動きがあります。海外からやってくる外国人観光客向けに宿泊、移動、食事といったサービスを言語選択含めて個人の嗜好にあわせて行うことなどが目指されています。

 

一方、地方では第4次産業革命に対しては、仕事が奪われるかもという悲観論よりもこの変化の波に乗ることが必然と考えられています。なぜならば、人口減少による人手不足が深刻で、事業活動の維持のためには低コストや効率化が喫緊の課題だからです。今現在の人口がどうであるかよりも、この変化の波から逃げずに向き合うかどうかが地方の未来の明暗を分けると考えられます。

 

なぜプログラミグ教育か?

第4次産業革命、言い換えるとIoT化された社会に向けての動きは世界的に進行していて、日本は出遅れていると言われています。IoT化された社会というのは現実社会をプログラムで動かすことができるようになるということを意味します。プログラミングの力がこれからやってくる世界を活かす鍵になります。日本でも学校教育でプログラミング教育が必修化されることになった背景はここにつながっています。

 

これから必要になるプログラミングは、従来のコンピュータエンジニアや研究者養成のための専門教育とは違って、国民の基礎的力としてのプログラミングだとされています。プログラミング環境も大きく進歩して、敷居はかなり低くなっています。しかも今の子どもたちは生まれた時からPCやスマホといった環境に慣れ親しんでいますから、小中学生でも無理なく学習することができます。それにしても全員に必要なのか?という疑問もありますが、それに対する答えは「IoTとは何か」に書かれている次の一説で理解できるでしょう。

 

世界ではコンピュータを利用したイノベーションが盛んだが、それをリードしているのは「プログラミングの専門家」でなく「プログラミングができるその分野の専門家」だ。例えば、農業分野。画期的な生産性を達成するコンピュータを駆使したスマート農場で、イノベーションを起こせるのは「プログラミングできる農民」だ。

 

イスラエルでは高校の教育改革によって2000年に高校でのプログラム教育を義務化したそうです。イスラエルがコンピュータ産業分野で急激に伸びて世界から注目を集めているのは、2000年からプログラム教育を受けた高校生が活躍をはじめたからだと考えられています。

 

これからの社会で必要になるのは、ある分野についての現実世界での経験や勘といった専門的知識をプログラミングを介して情報空間で扱えるようにすることです。例えば、情報空間で扱える状態をつくった農場では、農業の仕事内容が変わってきます。農地に出て農作業をすることがすべてなくなるわけではありませんが、生産物の品質を上げるためにプログラミングしたり、プログラムが出力するデータをもとに農作業の方法を変える指示を出したりすることが仕事になります。IoT化によって農業分野に新しい仕事が創造されることになります。こういった仕事が創造されることで、地方の農業法人に若い人の参入が増えている事例もあるそうです。

 

社会イノベーション

すべての情報がインターネットつながるIoT化によってもたらされる変化は産業の変革にとどまりません。国や地方の財政悪化によって公共サービスが行政だけで実現できなくなっていることを背景に、民間の力を借りて社会イノベーションをおこそうという動きにも関連しています。「IoTとは何か」のサブタイトルが「技術革新から社会革新へ」となっているのは、まさにこのことを指しています。

 

例えば、自動車のカーナビから集めたビッグデータを分析すれば、多くの車が止まったり、特定の天気において減速する箇所を特定できるようになります。定期的に点検車を走らせることなく、ビッグデータ分析結果にもとづいて、道路の保守点検や予防修理を行うことができるようになります。

 

道路点検にとどまらず、様々な課題への対応が考えられます。

  • エネルギー危機に対して、需要共有状況の正確に把握してエネルギーの安定供給を実現
  • 災害時の状況を把握して災害復旧を効率化
  • 医療機関と消防機関のスムーズな情報伝達による医療救急体制の整備
  • 高齢者の状態の情報把握による高齢者見守り
  • 食のトレーサビリティーによる安全な食の保証

 

こう列挙すれば、技術的な問題がクリアされれば明るい未来が待ち受けているように思えますが、技術以外に乗り越えるべき課題があります。道路の例でいえば、個々の自動車からのデータは誰のものか、誰が使っていいのかといったガバナンスの問題。人間のプライバシーにも関わる問題もあり、データを「適切に出す」「適切に使う」ことが必要になりますが、適切とはどういうことかを決める時には哲学が必要とされます。技術変革を社会変革に変えるためには、哲学のみならず、制度や法律の整備といった文系的な力も必要になってきます。

 

きたるべき社会で人が取り組むべきこと

これからおこるであろう情報通信技術をベースにした社会の変化については上記で一通り書き尽くせたと思います。産業においても公共サービスにおいても、今まで人が行っていたことのうちで機械化される部分が多くなることは間違いありません。

 

この流れの中で人が取り組むべきことは何でしょうか?

 

ひとつには、IoT化されていない領域をIoT化していく部分があります。プログラミングもそうでしょうし、公共サービス領域においては、哲学的な考えをもとに関係者間の調整を行って、制度を整えることも人にしかできないことでしょう。IoT化が進んだ領域にしても、何から何まですべてが機械化できるわけではないので、機械とうまく共存して課題解決を行う人も必要でしょう。そのためにも、簡単なものでも一度はプログラミングに挑戦して、どんなことができるのかを知っておくと良いと思います。

 

今のAIは、ある領域において最適な判断を行うことはできても、新しいものを生み出すことはできません。新しいものを生み出すことは人が取り組むべき領域です。創造的な人を育てること、創造的なものが生まれる場をつくることはこれからも人が取り組むべき重要なことであり続けるでしょう。

 

IoT、ビッグデータ、AI、ロボットが連動することによって現実世界への働きかけまでが自動化されますが、人に対して働きかけを行うものはこれらにとって代わられることはないと思います。一部にコミュニケーションロボットのようなものに置き換えられることはあるでしょうが。

 

なぜなら、人に向き合う時には論理的な処理を行うだけではないからです。向き合う人の感情、向き合う人に対する自分の感情をも含めた動きが必要になり、感情の理解や感情をもたない機械には決して真似ができない動きを人は行います。機械化が進む社会は、より人間らしいやさしさや思いやりが際立つ社会になるとも言えます。

育児経験は仕事の役に立つ

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購入したものの積ん読状態になっていた「育児は仕事の役に立つ」を読了しました。この本の対象とされているのは、子どもが保育園児や小学生くらいの育児が中心なので、子どもがまだ小さかった頃の育児生活を懐かしく思い出しながら読みました。本文中に出てきた「経験ベースの学び」という言葉を深めたいと思って、ジョン・デューイの「経験と教育」にも手を伸ばしました。この2冊をあわせて、自己教育力の観点から育児経験が仕事の役に立つこと紐解いてみたいと思います。

 

 

チーム育児がもたらすもの

「育児は仕事の役に立つ」では、育児をプロジェクトと捉え、夫婦を中心とするチームが恊働して達成するプロセスで、育児以外にももたらされるものがあるとしています。

 

「育児の実行」と「育児の体制づくり」の両方を含む育児をチームで行うことは、「リーダーシップ能力」の向上に効果があることが調査分析の結果で明らかになったことが説明されています。

 

また、育児をチームで行うことは、「マネジメント的役割を担うことは魅力的である」との認識を向上させる分析結果も示されています。

 

さらに、育児をチームで行うことは、親の人格的発達にも促すこともデータで示されています。

 

育児の経験は育児以外にも様々な効果をもたらすという説明の中で、私が最も関心をもったのは、親の人格的発達を促すという点です。子どもが生まれた瞬間に突然に親に変わるのではなく、子どもが育つにつれて親としても育っていきます。親という新しい視点で世界を見ることで、人間的にも成長していく実感をもっている人は多いのではないでしょうか。

 

経験と教育

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ジョン・デューイ著の「経験と教育」はとても薄い本で、出てくる単語は難しくないのですが、その思考をたどるのはやや難解な本でした。思い切り要約すると下記になります。

 

  • 真実の教育はすべて経験を通して生じる。
  • 経験は連続性と相互作用の原理をもつ。
  • 経験は連続的におこるものであるため、経験の効果はそれ単独の快/不快ではなく、その経験が未来による望ましい経験をもたらすかで判断される。
  • 経験は個人の内部だけで進行するものではなく、客観的条件と内的条件の相互作用によって成り立っている。
  • 経験の中に教材を発見する。

 

教育は経験を通じてなされるけど、 教育的な経験と非教育的な経験があり、教育的な経験は連続性と相互作用の原理をもっていると書かれています。被教育者の経験の中に教材を発見していくことについても触れられています。

 

育児経験という教材と自己教育力

育児は、親が子どもを育てると同時に親が親として育っていくプロセスを含みます。人が育つ、つまり教育がおこる際には、教育者と被教育者が存在します。学校では、教育者は教師であり被教育者は子どもです。家庭では、教育者は親であり被教育者は子どもです。会社では、実態はともかくとして、教育者は上司であり被教育者は部下です。

 

親が親として育っていく場合には、誰が教育者に相当するのでしょうか?この場合は、親が教育者でもあり被教育者でもあると言えるのではないでしょうか。育児を行う経験の中に教材を発見し、経験を通じて自己教育を行っていると見ることができます。

 

育児経験の中でおこる教育の代表的なものを表にまとめたものが下記です。

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私自身が育児経験を通して、様々な教材をもとに育てられた事例を挙げてみましょう。

 

(1)教材が子どもの事例

育児経験を通して親が自己教育を行う教材としての最たるものが子どもです。

 

「育児は仕事の役に立つ」の中に中原先生が書かれていたように、子育てを通して、子どもと一緒に子ども時代をもう一度生き直している感覚があります。その中で、いかに自分が固定観念にしばられているのか、新鮮な目で世の中を見る目を失っていたかに気づかされます。

 

育児を通して最も磨かれたと感じるのは観察力です。子どもが保育園に通っていた時に、保育園の先生と保護者の間で子どもの様子を情報共有する仕組みとして連絡帳がありました。体調の変化や気になることなどを記入して、子どもに適切な対応をするのが目的のものでしたので、子どもがいつも通りに元気にしている場合は記入しなくてもよいものでした。私は、忙しさにまぎれて、目覚ましく成長していく幼少期の変化を見逃さないために、毎日必ず何がしかの子どもの変化を連絡帳に記載することを自分に課していました。そのおかげで、子どもを観察することが必要になり、観察を通じて変化を察知する能力が磨かれたと感じます。

 

人は一人一人が個性をもった存在であり、個々に向き合うしかないということも子育てを通じて理解しました。同じ親から生まれても、生まれた瞬間から違う個性をもち、同じ環境で育てても、まるで正反対とも言える人物に育つということはちょっとした衝撃でもありました。

 

PDCAなど全く通用しないくらいに突発的なことが次々おこるのが子育てです。初めての子どもの時は親としても初体験のことばかりでしたが、3人目になると、自分の経験値もあがっているので新しい状況に遭遇することはそうそうないだろうと高をくくっていましたが見事に裏切られました。自分の想像を超えたことが次々におこって、何が正しいのかわからなくても親として何らかの対処をせざるを得ない状況に常にさらされて、精神的に鍛えられました。

 

こんな行動をとるのはこういう心理が働いているのか、こういう言い方をするとこういうことがおこるのかなど、人間に対する理解が深まったのも子育てを通じてでした。

 

働きながら1人目の子育てをしている時、もうこれ以上何かを増やすのは無理だなと感じていました。2人目が生まれて、1人の子育てで限界と思っていたことが限界ではなかったと悟りました。2人目の時も2人の子育てが限界と思っていましたが、3人目が生まれた時も同様に、2人の子育てが限界ではなかったと悟りました。これが限界と思うのは、自分がそう規定しているだけなんだなということも育児経験から学んだことでした。

 

(2)教材が子どもの先生の事例

子どもが学校に通うようになると、子どもの先生から教わることもたくさんありました。

 

ある時期、子どもがブックオフに入り浸って、マンガの立ち読みに明け暮れていたことがありました。何時になっても帰って来ず、様子を見に行くと逃げてしまいました。この件で学校の先生に相談した時、先生から言われたのは「行き先がわかっているのだから安心じゃないですか」でした。そういう見方もあるのかと自分の視点の狭さに気づかされました。

 

高校の先生には、長期の視野で子どもの成長を考えることの大切さを教わりました。大学受験に役に立つかどうかでなく、成長する機会になるかどうかを考えて、子どもを見守るように教わりました。今考えると、デューイの言うところの経験の連続性を意識されていたのだとわかります。

 

(3)教材が子どもに関わるコミュニティの事例

子どもができると、学校のPTAや子ども会、学童保育、少年サッカー団など、子どもに関わるコミュニティに親も関わるようになります。「育児は仕事の役に立つ」にも書かれていましたが、職場とは異なるコミュニティには、様々な価値観や家庭環境の人がいることを知ることになりました。PTAの役員をしていた時には、パソコンを使えるだけで驚かれて、そのこと自身に私が驚きました。自分が普段属しているコミュニティを見ているだけでは、社会のほんの一面しか見えていないことを痛感しました。

 

(4)教材が子どもの環境の事例

子どもが保育園や学校に通うようになると、家庭で準備しないといけないものが色々とあります。保育園の時はお昼寝用の布団を持参する必要がありましたが、布団を入れて持ち運ぶ用の入れ物が必要でした。赤ちゃん用の布団とはいえ、布団が入るような袋はどこにも売っていなかったので自分で作る以外ありませんでした。裁縫が苦手だったので、自分で何かをつくるなどという発想はなく、ミシンも持っていませんでした。が、必要にかられてミシンを購入し、すっかり忘れてしまっていたミシンの使い方を自力で勉強して、悪戦苦闘しながら布団袋をつくりました。子育てで必要になっていなかったら、きっと苦手だったことに取り組むことはなかったと思います。

 

子どもが学校から持ち帰る学年便りも学びの扉になりました。学年便りに掲載された子ども達の作文から、今の子どもがどんなことを感じ、考えているのかを知ることができました。

 

育児経験は仕事の役に立つ

育児経験は様々な教材を通じて、自己を教育し、人間的成長を促すことを事例を挙げて述べました。

 

野村克也氏の「弱者の兵法」に、「人間的成長なくして技術的進歩なし」というフレーズが書かれています。ここで言う技術的進歩とは野球の技術的進歩のことであり、仕事上のスキル向上を指します。

 

育児経験は人間的成長を促す

人間的成長なくして仕事上のスキル向上なし

この2つを合わせると、「育児経験は仕事の役に立つ」と言えます。

 

子どもの人数を聞かれて3人と答えると、「大変ですね」と言われることがよくありますが、私は「大変ですね」と言われることにいつも違和感を感じていました。なぜなら、育児を通して得られることは大変さをはるかに超えるものだと感じていたからです。

 

育児を通して、確実に人間的に成長したという実感があります。3人の子どもに恵まれて、自分の人生と合わせて4人分の人生を味わうことができています。こんな幸せなことはありません。

 

今日は母の日です。このブログを書きながら、育児経験を振り返って、私を母親にしてくれてありがとうという気持ちで1日を過ごしました。

AIといかに向き合うか

現在は第3AIブームと言われます。AIでこんなことができるようになったというニュースには枚挙にいとまがありません。それと同時に、AIに仕事が奪われるという煽りが付け加えられているのをよく見かけます。

 

そんな中で「コンピュータが小説を書く日」というセンセーショナルなタイトルの本に出会いました。この本を読んでいるタイミングで発売されたHarvard Business Reviewの5月号のテーマが「知性を問う AI時代の『価値』とは何か」だったのは偶然とは思えない巡り合わせでした。

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これらの2冊から、AIといかに向き合うかについて考えてみたいと思います。

 

 

AIでできるようになったことは何か

「コンピュータが小説を書く日」に書かれているのは、コンピュータを使って作成した小説を星新一賞に応募したことの裏側でおきていた事実が書かれたものです。タイトルだけを見れば、コンピュータがついに小説まで書くようになったのかと、またもやAI vs 人間の対立図を強調されるようなネタのように思えますが、この本の内容はノンフィクションであり、正確な事実と研究者としての鋭い指摘が述べられています。

 

星新一賞に応募した小説をコンピュータがどうやって作成したかをざっくり言うと下記になります。

最初に完成版の小説を人間がつくる

小説を置き換え可能な部品(語、句、節)にばらす

  噛み砕いて言えば、穴埋め部分を埋めれば小説ができるような形にすることです。  

全体の内容の辻褄をあわせるようなパラメータを導入する

  例えば、登場人物に女性が選ばれれば、代名詞には「彼女」が選ばれるなど

穴埋め部分に置き換え可能な部品を適度に用意する

 

乱暴な言い方であることを承知で言うと、実はたったこれだけのことです。穴埋め部分に置き換え可能な部品の組み合わせのバリエーションだけ、新しい小説が書けるという仕組みになっています。

 

コンピュータプログラムが小説を書く様子を画面で見たら、次々に新しい小説を瞬時に書いているように見えます。

 

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これを見れば誰しもが驚くと思います。が、実際のところは、もともとは人間が書いた小説のある部分をあらかじめ用意した部品で置き換えているだけという言い方もできます。

 

もちろん、この方針を思いつくまでに試行錯誤があり、これをコンピュータプログラムとして実装するのには相当なスキルが要求されることは言うまでもありません。が、この事実を知って、作家という職業がAIに奪われるという危機感を抱くでしょうか?

 

この本の著者はこう言っています。

もし「コンピュータが小説を書けた」のであれば、それは「小説を機械的に作る方法(アルゴリズム)がわかった」ということです。賢くなったのは人類であり、機械ではありません。

 

このことは、小説を書いたという分野にとどまらず、「AIで◯◯ができるようになった」と言われているすべての分野について言えることです。AI技術の進歩は機械の進歩ではなく、人類の進歩に他ならないのです。

 

 

AIにはない人間の能力

Harvard Business Reviewの5月号では、4人がAIにはない人間の能力を論じています。極限まで要約してしまえば、それぞれが言っていることはこうなります。

安宅和人さん 知覚(意味を理解すること)

朝井リョウさん 意志(書きたいと思うこと)

前野隆司先生 意識(モノやコトに注意を向ける働きと自己意識)

石黒浩先生 情動(未知のものにどれだけ興味をもてるか)

 

表現は少しずつ違いますが、実はこれらは2つに集約できるように思います。

  1. 知覚 ≒ 意識(モノやコトに注意を向ける働き)
  2. 意志 ≒ 意識(自己意識)≒ 情動

  

さらに、「情動」という言葉はもっと身近な言葉では「好奇心」に置き換えられます。

 

人間もコンピュータも何らかの入力から情報処理を行って出力する装置とみなした場合の違いは、下記の図のように説明ができます。人間の場合の図は、安宅さんの知覚の全体観の図をベースにしています。

 

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          コンピュータの情報処理の場合

 

コンピュータの場合は、何らかの形で記号列に変換したものを入力し、入力された記号列のままアルゴリズムにしたがって処理して、アルゴリズムに書かれた出力を行います。

 

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              人間の情報処理の場合

 

人間の場合は、入力を感覚に翻訳し、対象の意味を理解して処理します。対象の意味を理解することが知覚であり、記号列のままに処理をするコンピュータとは根本的に処理が異なります。また、何を知覚し、どう知覚できるかは経験によると書かれています。元の図には書かれていませんが、どんな経験をするかは意志や好奇心が決定づけ、経験したことがさらに意志や好奇心に影響を与える関係にあると言えます。従って、知覚は間接的には意志や好奇心に依存すると言えます。さらには、何を出力しようとして知覚するかもまた、意志や好奇心に依存するのが人間の特徴です。

 

安宅さんの論文では「知性の核心は知覚にある」というメッセージになっています。このメッセージを拠り所にしてAIと人間を対比してみれば、コンピュータがいかに複雑な処理を高速に行ったとしても、人間が知的に行っていることにははるかに及ばないことがわかります。

 

もう一歩踏み込んで、Harvard Business Reviewの5月号に掲載されている4本の記事を総合すると「人間の核心は意志、好奇心にある」というのが私の解釈です。この解釈を拠り所にしてAIと人間を対比してみれば、コンピュータがいかに複雑な処理を高速に行ったとしても、人間のように知的に新しいものを生み出すことはできないことがわかります。

 

まとめると、今人間が知的に行っていることが完全にAIに置き換わってしまうわけでもなく、今はまだ人間が行っていない新しいことをAIが勝手に生み出すことはないと結論づけられます。少なくとも当分は。

 

この結論からすると、AIに何ら怯える必要はないという結論のようにも見えますが、それだけにとどまらない意味が含まれています。安宅さんの論文の最後の一文にある「『かわいい子には旅をさせよ』はいまも、そして自分に対しても正しいのである」を読んで、旅に出ようと思えるかどうか、実際に旅に出るかどうかは意志や好奇心が大きく影響します。意志や好奇心をもたない人には厳しい現実が待っている社会になったということも暗示されています

 

AIに関する誤解が生まれる理由

ここまでを読めば、必ずしもAIに脅威を感じる必要はないことは明らかです。にも関わらず、AI脅威論の空気が渦巻いているのはなぜでしょうか。

 

「コンピュータが小説を書く日」で2つの理由が示唆されています。

 

理由の1つは、現状のAIでどこまでのことができて、人間のどんな部分は機械化されない価値があるのかについての事実を正しく認識していないことです。事実は「コンピュータが小説を書く日」のようなAI研究者自身が書いた一次情報にあたればわかります。しかし、メディアのフィルタを通ると世の中がひっくり返らんとばかりの技術革新と社会変化がおこっているかのような情報として伝わってきてしまいます。

 

私自身も、膨大なデータを学習するディープラーニングによって第2次AIブームとは違う変化がおこっているような錯覚に陥っていました。冷静に考えてみれば、AIに何をインプットするかもアウトプットとして何が欲しいかも決めているのは人間なのですから、人間が道具として使うという点では第2次ブームの時と何も変わっていません。

 

もう1つの理由は、「コンピュータが小説を書く日」の中で説明されています。

・日本人は「万物に魂が宿る」と考え、物を擬人化するほどにそれほど抵抗がない。

・「コンピュータが判断する」「コンピュータが理解する」「コンピュータが学習する」といった擬人化表現に日常的に接していると、擬人化の意識が薄れて違和感なく受け入れるようになり、コンピュータがあたかも人間のようなものとして認識されるようになるのではないか。

・ロボットのように体をもつと、もっとやっかいになる。

 

これは確かに言われてみればそうです。他の物に比べて、コンピュータに対しては擬人化表現を使うことが多いような気がします。私たちは自ら、コンピュータが人間の代替になるものであると暗示をかけているようなものです。

 

いずれにしても、事実を正しく認識することの大切さを痛感します。

 

AIといかに向きあうか

第3次AIブームの過熱したAI熱が冷めたとしても、引き続きAIの技術開発は進むことでしょう。AIといかに向き合うかを考えるには、次の3つが前提になるでしょう。

1. AIで何がどこまでできるのかの事実を正しく知る

2. AIは人間に敵対するものとして恐れる必要はない

3. AIは取るに足らないものとして無視するのは得策ではない

 

この3つの前提に立った上で、AIに対してとるべき戦略は、生産性をあげるために、より高い価値を生み出すためにAIをいかに活用するかということに尽きるのではないでしょうか。実際、Harvard Business Reviewの5月号の中で、作家である朝井リョウさんはインタビュー記事の中でこう言っています。

小説のキャラクターの名前は「名前生成ソフト」で決めていて、自分ではほぼ考えていません。キャラクターの名前を決めることに、作家としての僕の独自性や創造性を発揮する必要がないと思っているからです。

 

膨大なデータの中からある条件にマッチしたものを探してくるようなことは、明らかに人間よりもコンピュータの方が得意です。コンピュータが得意なことはコンピュータに任せて、人間にしかできない部分で人間の能力を発揮した方がよくないでしょうか。折しも、働き方改革という名のもとに生産性の向上が叫ばれているのですから、AIも道具として使い、生産性の向上を目指せばいいと思います。ただし、道具は使い方によっては諸刃の剣になります。AIを使うにも人間の知性が試されます。

 

「ひと仕事を成し遂げた人の講演+野中郁次郎先生のコメント」がセットになった講演会を何度か聴講したことがあります。野中先生のコメントの最後はいつも「最後は生き方だ」であり、とりわけその部分に力をこめられていました。その時はぼんやりとしかわかりませんでしたが、そこに何か重要な意味があると直感して「最後は生き方」の言葉はいつもメモ書きしていました。今回、AIといかに向き合うかを考えてみて、ようやくその意味がクリアになりました。

 

大量のデータが蓄積され、AIの技術が進歩し、AIを道具として使うことが前提の社会が目前に迫っています。社会を前に進めるためにAIを道具としてうまく使えるかどうかは人間の知性に依存します。人間がAIと共存しながら知的なふるまいができるかどうかは人間の意志や好奇心にかかっています。AIと共存する社会とは、人間の意志や好奇心がクローズアップされる社会だと言えるでしょう。

 

AIといかに向き合うかを問うことは、自分の意志や好奇心を問うこと、言い換えれば自分の生き方を問うことに他ならないというのが私の結論です。