センスの正体

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イデアソン、ハッカソン、メイカソンなど、言葉や写真だけではなかなか伝わりにくいイベントの記録動画の作成を撮影から編集までを一貫して行ってきました。

 

3月4日に伊予銀行本店で開催された「いよぎんアイデアソンChallenge2017」には、参加者として参加しました。そのため、初のチャレンジとして、撮影は他の方にお願いして、編集のみ担当するという分業制で動画を作成しました。何を撮影すればよいかを教えてほしいというリクエストには、以前に書いた動画制作に関するブログでお応えしました。

 

編集作業のスタートは、いつものように撮影した動画を一通り確認することから始めました。確かにブログに書いたようなシーンが撮影されていましたが、何かが違うと感じました。違和感を感じたことを友人に話したら、「撮影にはセンスがいるからねえ」という反応が返ってきました。

 

センスの違いと片づけてしまうこともできたのですが、「センスって実際のところ何なの?」と勝手に頭が考え始めてしまったので、考えたことを書きとめておきます。

 

 

センスの違いとは何か

まずは、具体的な事例でセンスの違いを説明したいと思います。

私ならこんなシーンを撮影したと思うけれど、今回は撮影されていなかったシーンとして挙げられるものが下記です。

(1)伊予銀行の建物

(2)紙に書き出すワークの際にペンが止まっている人物

(3)プレゼンターの話に聞き入る人のアップの表情

(4)プレゼンターが話し終わった後の拍手のシーン

 

私が自分で撮影を担当していたら、これらのシーンは撮影していたはずです。なぜなら、何度か動画作成を繰り返すうちに、これらのシーンがイベント記録動画に有効だというノウハウがたまっていたからです。センスの違いとはノウハウの有無の違いとも言えます。

 

センスはどうやって身につけられるか

私も動画を作り始めたのは約1年半前からです。それまでは動画作成のノウハウは持っていませんでしたし、特にノウハウ集的なものを読んだりしたこともありませんでした。(1)~(4)のシーンを撮影した方がいいというノウハウが身についたのはなぜかと考えてみたら、「良い事例」と「実践」から学ぶことを繰り返したおかげだったと思います。

 

初めて動画を作成する前には、お手本となるような良い事例の動画を選んで、同様なイベントの記録動画をまず見ました。その中から、あるといいなと思ったシーンや、どれくらいアップで撮るといいのかや、単調にならないようにどんなアクセントをつければ良いのかなど、何を撮影すれば良いのかを感覚として理解しました。初めてトライする時に良い事例から学ぶことはとても重要だったと思います。

 

とにもかくにもまずは1回作ってみました。初めての編集は大変でしたが、学びが大きかったです。編集する時になって初めて、このシーンはいらなかった、このシーンを撮影しておけばよかった、このシーンはこんな風に撮影すればよかったということに気づかされ、気づきのオンパレードでした。撮り損なった撮影の失敗経験はノウハウに変換されて自分の中に残りました。その後も編集をする際には、編集と撮影についてのリフレクションが同時進行で行われて、撮影のノウハウが蓄積されていきました。

 

こういった経験を経て、(1)~(4)のシーンを撮影するセンスが身につき、そのシーンを撮影すべき理由も説明できるようになりました。

 

(1)伊予銀行の建物

イベントが行われた建物や入り口は動画のオープニングに使えます。今回は、自分が伊予銀行に着いた際にiPadで建物を撮影していたのでそれを使うことができました。

 

(2)紙に書き出すワークの際にペンが止まっている人物

紙に書き出すワークでは誰もがスラスラとペンが動くわけではありません。ちょっと考え込んでペンが止まっていることもあります。そういった様子も動画に含めると、ペンが動いている様子との緩急がついて面白みが出ます。ペンが止まっている人物を撮影する時も、どこかしら動いている部分はあるのでその部分を含めて撮影します。

 

(3)プレゼンターの話に聞き入る人のアップの表情

誰かがプレゼンをしているシーンは、聴衆の表情も撮影して、プレゼンターと聴衆の様子をつなげて編集するとプレゼンのシーンの臨場感が伝わります。聴衆の表情を撮影する時もうなづいている時やクスリと笑った時などの表情を撮影した方が場の雰囲気が伝わりやすくなります。

 

(4)プレゼンターが話し終わった後の拍手のシーン

プレゼンターが話をしている時は聴衆は静かに聴いています。一人だけが話しているシーンに対して、話し終わって大勢が拍手するシーンはアクセントになります。

 

センスの正体

先にも書いたように、撮影のノウハウについてはブログに書いていました。(1)~(4)のシーンについてはブログに書かなかったのではなくて書けなかったのです。どういうことかと言うと、具体的な事例に対して自分とはここが違うと言うことはできますが、自分がもっているありとあらゆる身体知を言語化することは不可能だったのです。

 

センスの正体は言語化しつくせないノウハウであるというのが私の結論です。

 

撮影に限らず、ノウハウをどんなにマニュアル化したところでセンスのある人と同じようにはいかないわけです。じゃあセンスがないと思っている人はどうすればよいのでしょうか?センスがないと嘆く前にやってみるに限るというのが答えです。実践すれば何かしら新しいノウハウがたまっていくものですから。ただし、やりっぱなしにするのではなく、リフレクションすることがノウハウをためる必要条件です。

テクノロジー時代に新しい価値を生み出すものづくり

2月にイベント開催したものづくりプロジェクトもようやく一区切りがつきました。このプロジェクトを通じて、テクノロジー時代に新しい価値を生み出すものづくりについて考えたことを綴っておきたいと思います。

 

 

ものづくりプロジェクトの概要 

今回のものづくりプロジェクトは、高知県の伝統工芸品である土佐和紙を使って幕末維新博(高知県が2017年3月から2年かけて開催する観光キャンペーン)をPRする衣装をつくる企画にしました。2月1日の夜にアイデアソン、2月18日(土)に1日かけてメイカソンというプログラムを工作機械を備えたTechShop Tokyoで開催し、参加者は一般募集しました。

 

2月1日のアイデアソンは2時間30分と短い時間ながら、各チームともに独創的なアイデアが出されました。2月18日(土)は1日かけてのメイカソンといっても発表や審査の時間も必要だったので、実質的には5時間程度しかありませんでした。そのため、2月2日から2月17日までの期間、イベント参加者はTechShopで制作を進めることもできるようにしました。

 

ものづくりが好きな人 

TechShopを場所として使えるとはいえ、参加者のほとんどが社会人なので、自主制作を進めるには、仕事が終わった夜の時間や休日の自分の時間を提供していただくことになります。作品審査と副賞の用意はしましたが、それほど高価な副賞ではありません。自分の時間を捻出してイベント以外の期間にも自主制作をしてもらえるかはやってみないとわからないというのが正直なところでした。

 

2月1日に初めて出会ってチームを組んだメンバーがネットで連絡を取り合い、ほとんどの参加者が自分の時間を使ってミーティングや試作を進めてくださいました。事務局の予想をはるかに上回る制作へのモチベーションの高さに、アンケート項目に自主制作活動の動機の項目を追加したほどです。一体、何が動機づけになっていたかというと、副賞目当てなどという人は一人もなく、全員がアイデアを具現化するには2月18日のイベント時間では足りないからというものでした。

 

2月18日は朝から夕方まで、お昼をはさんで制作するというプログラムでした。この日の会場は、時折笑い声も聞こえたりはしましたが、誰もが自分のタスクに集中してもくもくと制作を進めていました。12時を過ぎた頃から何度かランチをとってくださいとアナウンスをしましたが、ほぼ全員がランチを抜いて制作を進めました。

 

メイカーとも呼ぶべき、ものづくりが好きな人というのは、アイデアをカタチにすることへの妥協を一切しない人でした。

 

2月18日の制作終了時刻までに、すべてのチームが作品を完成させて発表を行いました。その独創性と完成度の高さには驚きしかありませんでした。ただし、もうちょと時間をかけて手を入れたいと思っているチームもありそうだったので、最終の作品提出は2月25日まで延長することにしました。2チームがさらに作品をブラッシュアップして、展示しやすいように細部まで気配りした処理を施してくれました。

 

ものづくりが好きな人は、ものづくりへの妥協をしないだけでなく、心配りもできる人なんだなあと感心しました。ものをつくる際には、それがどう使われるかを考える必然性を含みます。ですから、独りよがりでものをつくるのではなく、使うシーンへの想像力を働かせられるのでしょう。

 

新しい価値を生み出すものづくり

新しい価値を生み出すものづくりは、

「理解する」→「アイデアを発想する」→「カタチにする」

の3つのプロセスからなります。

 

「理解する」の部分では、良いインプットを提供できるかはプログラムに依存し、インプットからインサイトを得られるかは参加者に依存します。

 

「アイデアを発想する」の部分では、良いアイデア創出メソッドを提供できるかはプログラムに依存し、インサイトからアイデアを発想できるかは参加者に依存します。

 

「カタチにする」の部分では、時間制限がある中で良いアウトプットが出せるような条件設定ができるかはプログラムに依存し、アイデアをカタチにする技術があるかは参加者に依存します。

 

いずれにせよ、ものづくりの質を決める変数はプログラムと参加者です。良いものづくりをするには、良いプログラムと良い参加者の2つの条件が揃うことが欠かせません。プログラムと参加者のどちらの比重が高いかというと、圧倒的に参加者の比重が高いというのが経験的に感じていることです。良い参加者が集まれば、多少プログラムの質が低くても良いアウトプットが生まれます。新しい価値を生み出すことに慣れていない参加者の場合には、プログラムを十分に練る必要があると言えます。

 

テクノロジー時代のものづくり

これまではアイデアはあってもカタチにするには職人的な技術や機械へのアクセスができる人に限られていました。レーザーカッターやUVプリンタ、3Dプリンタといったデジタル工作機械やArduinoRaspberry Piのような安価な電子工作部品を使えば、簡単に色々なものがつくれるようになりました。こういったテクノロジー時代になると、カタチにする部分の多くは機械でできます。

 

デジタル工作機械は高額なので個人で購入するのは難しいですが、そういった機械を備えていて個人がものづくりができるファブ施設は今、全国に120ヶ所まで増えているそうです。個人で所有しなくても、ファブ施設に行けば、デジタル工作機械を使って個人でのものづくりができる時代になっています。

 

例えば、レーザーカッターを使えば精巧なカッティングも可能になります。人間が行うのは、デザインを考え、レーザーカッターにつながったPCのソフトにデザインをインプットして、レーザーカッターの調整を行うことです。PCソフトの操作やレーザーカッターの調整の部分はそれほど難しいものではないので、学習すればできるようになります。テクノロジー時代のものづくりには、圧倒的にアイデアの部分が重要になります。

 

今回のプロジェクトで独創的なアウトプットが生まれたのは、幕末維新のインプットからインサイトを得たしっかりとしたアイデアがベースにあったからこそです。

作品タイトル「龍馬が兄に宛てた幕末の桃色手紙!現代LINEで語ればこうなる!」
半身別に今昔を表現し、正面に主文、背面に追伸文とする。

作品タイトル「文明開花」
コンセプトは明るい華やかな未来の訪れ。動乱の幕末、維新志士たちの活躍により、新しい文明の花が開いていくことを表現。

作品タイトル「時を動かすもの」
光の点滅と熱伝導による和紙の色変化で、維新(時代の動いた時)を表す。

作品タイトルおりょうへ贈る現代のウエディングスタイル」
日本に新しい風を巻き起こした龍馬夫妻に贈る婚礼衣装。高知の大地のやさしさで花嫁を包み込んで輝かせる、そんな想いを、ハリとしなやかさを併せ持つ和紙の特徴をいかして表現しました。

 

先に、新しい価値を生み出すものづくりは、「理解する」→「アイデアを発想する」→「カタチにする」の3つのプロセスからなると書きました。アイデアが先にあってそれをカタチにすることには違いがありませんが、カタチにできる術を知っていることがアイデアを生む側面もあります。例えば、今回、和紙の色を変えるというアイデアをカタチにしたチームがありました。これは、こんなことならできそうだという技術的な勘がはたらいたからこそできた発想だったと思います。

 

ものづくりの価値

イデアさえあればほとんど何でもつくれる時代になりました。一方で、100円ショップに行けば、ほとんどのものが100円で手に入る時代でもあります。自分でものづくりをするのと安価な既製品を買うのとを比べた場合、価格面で比較すると、既製品を購入する方に軍配が上がります。

 

わざわざ自分でものづくりをする価値はつくるという過程にあります。つくる過程でこそものをつくる喜びを得られます。今回のものづくりプロジェクトの参加者も、つくる喜びがあるからこそ、ランチも抜きで自分の時間も使って制作にうちこんでくれたのでしょう。

 

見る側からしても、できあがった完成品を見るだけでなく、つくる過程を見る方が圧倒的に面白く価値があります。つくる過程を見ると、できあがった作品の見えない部分にこめられた創意工夫や思いがわかって、完成品を見る目も変わります。

 

私がつくる過程を見ることに価値があることを知ったのはとある経験からです。娘が中学2年生の夏休みに映画を作るワークショップに参加しました。プロの映画監督に指導してもらいながら、合宿も含めて約1ヶ月をかけて子どもたちがつくった映画を完成試写会で見ました。中学生がつくったとは思えないクオリティの映画でした。けれども、子ども達がつくった映画よりも、そのメイキング映像の方がはるかに心を揺さぶられたのです。できあがった映画だけを見たとしたら「へえ、すごいなあ。中学生でもここまでつくれるのか」で終わっていたと思います。メイキング映像では、そのワンシーンを撮るためにどれほどの紆余曲折があったのか、つくる過程でどんな感情が渦巻いていたのか、どんな成長のストーリーがあったのかを知ることができました。

 

この経験から、ものづくりにはつくる過程にこそ面白さと価値があり、ものづくりの価値を伝えるにはつくる過程を伝える必要があると知りました。

 

私が、ものづくりプロジェクトの記録動画を作ったのは、つくる過程を伝えることに価値があると確信していたからです。記録動画をつくりながら、記録動画はものづくりプロジェクトの参加者にとっても価値があることに気づきました。参加者はチームに分かれて制作を行いました。また、チーム内でもかなり分業して制作を行いました。それぞれが自分のタスクに無我夢中で取り組んでいたので、他のチームはおろか自チームでも他の人の制作過程はほとんどわからない状況だったのです。ですから、記録動画は、他のチームはこうやってつくっていたのか、他の人はこうやってつくっていたのかということを参加者にも伝える役割を果たせたと思います。

今回のプロジェクトの記録動画はこちらからご覧いただけます。↓

https://www.facebook.com/techshopjapan/videos/642611509255711/

 

テクノロジー時代のものづくりプロジェクトの価値

今回のものづくりプロジェクトでは、アウトプット作品で土佐和紙と幕末維新博をPRすることを出口として設計し、幕末維新博の開幕日にあわせて高知空港での作品展示を行いました。いずれの作品も負けず劣らずの素晴らしい作品で、4作品が並ぶと人目をひく展示になりました。

 

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ものづくりプロジェクトの価値は、果たしてアウトプット作品の展示によるPRだけでしょうか?

 

土佐和紙は薄くて丈夫で、しかも美しいことは確かでした。それをPRして知ってもらうことは大事ですが、それだけで新しい需要を喚起できるでしょうか?今回のプロジェクトでは、土佐和紙にレーザーカッターで精巧なカッティングを施したり、そこに薄い色の土佐和紙を重ねて光らせたり、特殊なペインティングで和紙の色を変えたりといった、テクノロジーを活用した和紙を使った新しい表現アイデアが出され、実際にカタチにできることが実証されました。

 

レーザーカッターでの和紙のカッティング

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カッティングされた和紙

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カッティングした和紙に色和紙を重ね合わせ

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色和紙を重ね合わせて光らせたもの

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ペインティングした和紙の色変化

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テクノロジーを活用することで今までにない新しい発想が生まれたことを参加者の一人がこんな言葉で表現しています。

 

「和紙単体だと民芸的なものをイメージするけど、そこに電気や機械が入ってくると和紙だけではイメージできないカタチが取り込みやすかったので、機械と和紙のような伝統的なものを組み合せることで今までになかったものを創れた」

 

このものづくりイベントを高知県内で開催していたとしたら、残念ながら今回のようなアイデアは出てこなかったと思います。なぜなら、こういったテクノロジー活用のナレッジをもった人は今は都市部に集中しているからです。

 

けれども、ここで出されたアイデアをヒントとして、土佐和紙を使った新しい商品開発を高知県内で行うことはできるのではないでしょうか。

 

また、今回のプロジェクトの参加者は、作品をつくる過程を通して高知県への理解を深め、高知県への愛着を感じてくれるようになりました。つまり、高知県はテクノロジー時代のものづくりができる人達とつながることができたのです。

 

この2つの価値はアウトプット作品の展示よりもはるかに大きな価値ではないでしょうか。これらの価値が地域と都市をつなぐ活動の価値に他ならないと思えるのです。これからの時代には、こういったカタチのない価値に気づけるか、気づいたとしてその価値を活かせるかがプロジェクトの成果の明暗を分けるのだと思います。

動画制作から見えてきたこと

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必要にせまられてイベントの記録動画を何本か作りました。今また新しいイベントの動画を編集中です。動画の作り方を体系的に学ぶこともないまま、試行錯誤しながら我流で動画を作る中で見えてきたことがあります。

 

 

動画制作の知識

動画制作を体系的に学んだことはありませんが、その道のプロから基本となる知識を聞く機会には恵まれました。初めて自分で動画を制作をする前に私が持っていた知識は4つでした。

  

(1) 動画の8割はBGMで決まる

(2) テンポが大事

(3) 引きと寄りを組み合せる

(4) 場面の転換には風景をはさむ

 

(1) 動画の8割はBGMで決まる

この話は衝撃的でずっと心に残っていました。それから数年後に、自分で動画を作ることになった時、この話を真っ先に思い出しました。長調であれば明るい印象を、短調であれば暗い印象を与えるように、音の調べが全体の印象を決定づけます。そこにどんな映像を重ね合わせても旋律から受ける印象を超えることはできません。人間がいかに音楽に影響を受ける存在かは自分で作った時も実感しました。

(2) テンポが大事

動画には速いか遅いか2種類のテンポがあると聞きました。速いテンポの動画はBGMも速いテンポのものを選ぶと同時に1つのコマも短くしてテンポ良く切り替えます。遅いテンポの動画はBGMもゆったりしたテンポのものを選び、1つのコマも長めにとると良いそうです。すべての動画の要素をテンポに合わせて決めることが全体として調和のとれたものになるということのようです。

(3) 引きと寄りを組み合せる

引きと寄りは意識しておかないと、引きの映像ばかり撮ってしまったり、寄りの映像ばかり撮ってしまったりしがちです。が、これらをミックスするだけで、ずいぶんと素人っぽさが抜けます。実際、人間がものを見る時も引いたり寄ったりしながら見ているので、それに近い視点の動きにする意味があるのでしょう。

(4) 場面の転換には風景をはさむ

これは言われるまで自分では気がつきませんでしたが、映画などを見てみると実際にそうなっていることに気づきます。場面が変わる映像を連続的につなぎ合わせるよりは、風景を入れて場面転換を表した方がひっかかりなく鑑賞することができます。言い換えると作品として洗練された動画になります。

 

たった4つの知識ですが、これらの知識を使うだけで鑑賞に耐える動画になります。(2)と(3)は知識として知らなくても何度か作るうちに自分で発見できたかもしれませんが、(1)と(4)は経験から知識として導き出すのは難しかった気がします。なので、たまたま知っていたこれらの知識は動画制作の際におおいに役立ちました。

 

何を撮影するか

動画制作の知識から、引きと寄りのシーンの撮影、場面転換に使えそうな風景は撮影することを意識しています。これ以外にどんなシーンを撮影するかは自分の感覚を頼りにしています。正しいかどうかはわかりませんが、編集する段になって使えるなと思えるものを挙げてみます。

 

1. 話をしている人
2. 特徴的な表情
3. 身体の一部の動き
4. 道具を使っている時の動き
5. 道具を使ってできた結果
6. 予想外におこったこと

話をしている人

話をしている人を撮る場合は2種類にわけられます。プレゼンターのようにあらかじめ話をすることが予定されている人とイベントの中で自然に言葉を発する人です。

 

プレゼンターの場合は固定した場所で決まった時間帯で話をするので、固定して撮影するならば簡単です。が、長時間撮影しっぱなしにするとセリフの取りこぼしがなくなる一方で編集は大変になります。また、カメラ一台で撮影する場合は、話を聞いている聴衆も撮影が必要になるので、プレゼンターを固定して撮影し続けるというのは現実的ではありません。となると、切り取って使いたいセリフの部分をうまく撮影するというのはかなり難しく、取りこぼしたなあと思うこともよくあります。

 

イベントの中で言葉を発する人の撮影も難しいものです。いつ、どんなタイミングで言葉が出るかわからないので、あらかじめ予測してカメラを向ける必要があります。例えば、何か食べ物を食べていれば、その味などに対する言葉を発することを予想してカメラを向けます。対話のシーンでは、誰かしら何か言葉を発しているので、いくつかのシーンを撮れば使えるセリフが撮れることが多いです 

 特徴的な表情

イベントの記録動画で一番撮りたいのが人の表情です。参加者の感情を表すのに最も有効なのが人の表情だからです。一瞬の表情を捉えるのはなかなか難しいものですが、しばらく観察していると表情豊かな人を発見できるので、それらの人に照準を合わせてタイミングを待っていると、いくつかはうまく撮影できます。

身体の一部の動き

人物を撮影する時は動いている部分を入れて撮影します。瞬きでも指の動きでもどんな小さな動きでも、とまっているよりは動いている素材を組み合せる方が躍動感が出ます。

道具を使っている時の動き

ペンで書いたり、ポストイットを貼ったり、レゴを使ったりなど、道具を使っている時の動きもイベントを特徴づける素材として撮影します。その時は手元に寄って撮ることが多いです。

道具を使ってできた結果

道具を使った動きの結果できたものを撮影します。手元の動きの後にできたものをもってくると何がおこったのかがわかるからです。例えば、ポストイットを貼る動きを2~3個つなぎあわせた後には、ポストイットを貼ってできた模造紙の映像をつなぎます。

予想外におこったこと

イベントの記録動画を撮影する際には、あらかじめイベントの流れを頭に入れておきます。どこでどんなことがおきそうかを予想して、それを見越した位置にあらかじめ移動して撮影します。が、予想外のことがおこるのがイベントたる所以でもあり、そのイベントの面白さでもあります。なので、そういう場面は必ず撮影します。私にとって予想外というシーンであっても、撮影者である私が面白いと思っているので、いい絵が撮れることが多いです。

 

どう編集するか

編集作業は楽しくもあり、つらくもある作業です。1日のイベントの場合、撮影した動画の総時間は1時間を超えます。それを編集して2~3分以内、時には1分以内に編集するのは骨の折れる作業です。

 

まずはじめに撮影した動画をすべて見直し、使えそうな動画を選別します。選別しながらイベントの様子を思い出して、そのイベントを伝えるひとつのイメージを自分の中でつくっていきます。記録動画なので、実際におこった事実を切り取ってつなげるだけですが、やはりイメージをもって編集しないと統一感をもった訴求力のあるものになりません。

 

イメージが固まってくると、次にBGMを選びます。普段からストックしてあるBGMの中からイメージに合うものを探します。ここでピッタリくるBGMが見つかると、その後の編集作業がはかどります。これと決めたBGMを頭の中で流しながら編集できるからです。

 

BGMを頭の中で流しながら選別したひとつひとつの動画から実際に使う部分を切り出しながらつなげていきます。基本的には時系列につなげていきますが、場面切り替え用の素材や何かに使えそうと思って撮影した動画は、必ずしも撮影した時系列とは違う順序の位置にはさみこみます。

 

一通りつなげてみた段階では、たいてい15分程度になってしまいます。ここから2~3分までに削りに削っていく作業を地道に続けます。ここが一番しんどいところです。残したいと思ういいシーンがイベントでは沢山生まれますが、バッサリと削らざるを得ません。5分程度までになった段階でBGMを組み込んで全体のイメージを確認します。全体を通して再生して、さらに削れるところを探しながら0.1秒単位で縮めていくということを何度も繰り返します。

 

毎回、一番頭を悩ますのがオープニングとエンディングです。ここに何をもってくるかは全体の印象に大きく影響します。動画の編集は複数日にわたって行いますが、実際には編集作業をしていない時も頭の片隅に動画のことを抱えている感じがあります。オープニングやエンディングにどの絵を使うかは、編集作業をしていない時にふいに思い浮かぶことが多くあります。何に使うかはわからないけど気になったから撮っておいたものがオープニングやエンディングに使えることがあります。なので、気になったものはとりあえず撮っておくと役に立ちます。

 

(この段落は2月27日に追記しました)

エンディングでは、どの絵を使うかに加えて、BGMをどこで終わらせるかが大事になります。動画を作る際には、その目的によっておよその尺が決まります。が、尺を決定した後に既成のBGMをあてこむと、決めた尺の長さでBGMが終わると後味が悪くなってしまうことがあります。およその尺の前後で、BGMをそこで切っても自然な終わりを感じさせる位置を決めて、その長さに合わせて動画の長さを調整する方がうまくいきます。

 

編集も撮影と同様に感覚的に行っている部分が多くを占めています。なぜ、その素材を選んだのか、なぜその順序に並べたのかは論理ではなく感覚としかいいようがありません。ですから、おそらく、記録動画だとしても作った人の数だけ違うものができるのだろうと思います。

  

動画制作から学べたこと 

私の場合、他に作る人がいないという理由で、全くの我流で動画を作ってきましたが、そのおかげで学べたことがあります。

 

真っ先に挙げられるのが編集の力です。おこった事実はひとつでも編集の仕方で全く別の出来事であったかのように見えます。笑顔のシーンだけを切り取ってつなげると、あたかもイベントの参加者全員が始めから終わりまで笑っていたかのように楽しげな雰囲気に仕上がります。もちろんずっと笑っていたなんてことはないのですが。

 

予測する力も磨かれます。一瞬の出来事を逃さずに撮影するためには、予測する力が欠かせないからです。撮影しながら、常に予測を働かせておくようになります。

 

動画を作り始める時に4つの知識をもっていたことはとても役に立ちました。が、自分で作ってみることでその知識がより深く理解できました。さらに自分が作ってみることで新たな知識が創り出され、創り出された知識も次に作ることでさらに深まりと、知識と実践がスパイラルしながら上昇していくように思います。

 

動画制作は何度かやれば慣れてサクサクできるようになるということはなく、毎回つらく苦しい作業を乗り越えなければならないのですが、それゆえに出来上がった時は言葉には表しがたい爽快な気持ちを味わえます。

 

自分で作らない限りわからないことがあり、作ることでしか得られない苦しさと達成感があるということも学びました。人が何かを作ることに魅せられる理由が少しわかった気がします。

身体の正しい使い方を学ぶ 〜ピラティスレッスンを体験して〜

前回の東京滞在中にピラティスのプライベートレッスンを体験しました。友人の尾崎美香さんがピラティス指導者になるための指導実践期間中とのことで声をかけていただき、超お得に体験してきました。

 

私はこれまで整体やマッサージなどを一度も受けたことがありません。我慢できないほどの肩こりや腰の痛みを感じたことがないので、そういったものを受ける必要性を感じることなく今日まできました。今回はちょうどいい機会だと思って、ピラティスレッスンを体験することにしました。

 

ピラティスレッスン体験

土曜日の昼下がり、尾崎さんに指定されたレッスンスタジオに向かいました。レッスンのはじめに、尾崎さんから、骸骨の標本模型を見ながら、人間の骨について説明を受けました。わざわざ骸骨の標本模型を見た理由は説明を受けている時にはわかりませんでしたが、その後のレッスンでわかることになりました。

 

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体験レッスンの時間は60分。尾崎さんに言われるがままに身体を動かしました。何種類だったか覚えていませんが、色々なレッスンワークを行いました。それぞれのレッスンワークは身体の特定部分を動かすものだったように思います。激しい動きのものはなく、ゆっくりとした動作での動きを何度か繰り返すものでした。例えば、ベッドのような台の上に仰向けになって、上から吊り下げられているバーを手でもちながら腹筋のような動作をしたり、同じく仰向けになって足裏でバーを押したりゆるめたりするなど。

 

60分は長いなあと言うのが正直な感想でした。理由は、単調な動作を繰り返すだけで、それに対する効力感を感じられなかったからです。もともとピラティスを受けてなんとかしたいという課題を抱えていたわけではないので、当然と言えば当然なのですが。

 

ただし、今回、ピラティスを体験してみて、発見がいくつかありました。

 

普段の生活の中では、胴体、つまり、首から腰まではひとつの身体的パーツという認識をしていました。ところが、腹筋のような動作をするレッスンの時に、「背骨をひとつずつマットから離すようにゆっくり起き上がってください」と言われて、胴体でひとつのパーツじゃなくて、背骨のひとつひとつが動きのパーツなんだと初めて意識できました。頭の中に背骨のイメージを描けないと、背骨をひとつずつ意識して動かすことはできません。この時、骸骨の標本模型を見た意味がようやくわかりました。

 

手や足に関しては、言われた通りにすんなりと動かせたのですが、背骨や骨盤など、普段は意識していない身体的パーツに関しては、こう動かしてと言われても、どこにどう力を入れたら言われた通りの動きができるんだろうと混乱しました。自分の身体は自分で自由に動かせると思っていましたが、そういうわけではないことも発見でした。

 

すべてのレッスン動作は、呼吸とリンクさせるようになっていました。身体をまっすぐに伸ばした自然な体勢から曲げる動作の時には息を吐き、曲げた姿勢を伸ばしてもどる動作の時には息を吸うように指導がありました。普段、身体を動かす時に、呼吸と動作を合わせることは意識したことがありません。大きく息を吐くと、自然と身体の余計な力も抜けていきます。身体を曲げるという動作をする時に余計な力を入れると不自然な身体の使い方をしてしまうのだろうと思います。それを繰り返していると、おかしなクセがついて、つもりつもって身体の不調になるのかもしません。

 

ピラティスって何ですか?

体験レッスンが終わって、before/afterの変化はどうだったかというと、身体に関する知識的な発見はありましたが、身体感覚としての変化は感じることはできませんでした。ピラティスには興味をもったので、レッスン後に尾崎さんにいくつか質問をぶつけてみました。

 

私: ピラティスと整体ってどう違うんですか?

 

尾崎さん: いい質問ですねー。整体は不調をきたしている部分を治療して治すもので、ピラティスは身体の正しい動かし方を根本から身につけるものなんです。

 

私: 今日、レッスンを受けたけれど、正直言って、私は身体感覚としての変化は感じなかったなあ。

 

尾崎さん: たぶん2~3回受けると自分の身体感覚も変わってくると思います。

 

私: どんな変化がおきるんですか?

 

尾崎さん: 身体をより機能的、効率的に使えるようになります。

 

私: うーん、まだよくわからないなあ。

 

尾崎さん:  自転車に初めて乗る時とか、初めて泳ぐ時に似ていて、「こうするとうまく身体がつかえてる」という感覚がつかめると、身体の使い方の改善もよりスピードアップされます。

 

私: 書道で週1回のレッスンで指導を受けて、美しい字に修正する。どうすれば美しい字を書けるか言語化できるようにはならないけれど、感覚としてわかるようになるって感じですか?

 

尾崎さん: そんな感じです!テニスでサーブを入れる感じ、ピアノで左手右手で違う動きをする感じという例えもできそうですね。頭で何をするのか理解して、身体を使って正確にアウトプットするという一連の流れを繰り返すうちに、意識せずに身体感覚としてできるようになるという流れです。

 

私: なんとなくわかってきました。

 

私: 今回は尾崎さんが指導実践期間中ということで、超お得にレッスンを受けられましたが、実際のピラティスレッスンの料金って結構なお値段ですよね?

 

尾崎さん: おかしなクセがついたまま身体を動かして、故障を繰り返して整体や整骨院にお金を払うよりはいいと思っています。

 

私: あー、確かに。ところで、尾崎さんがピラティスを始めたきっかけは何だったんですか?

 

尾崎さん: 私がトライアスロンをやってることは知ってますよね?それから、足首を骨折したことも知ってますよね?

 

私: はい、知ってます。

 

尾崎さん: 整形外科ではとりあえず歩けるようになるところまでのリハビリはやってくれますが、足をまだひきずるような歩き方をしていても日常生活に支障がないところまでくると、それ以上のリハビリはやってくれません。私はトライアスロンの大会に出るために、自分の足を自由に思いのままに動かせるところまでリハビリが必要だったんです。そのためのリハビリとしてピラティスと出会ったんです。

 

私: なるほどー。アスリートや大会を目指して運動している人には良さそうということはわかりましたが、そうじゃない人がピラティスをやる意義って何かあるんですか?

 

尾崎さん: 例えば、床下に落ちているものを拾う時に、正しい身体の使い方をすればぎっくり腰になることを防げるんです。

 

私: ふむふむ。虫歯になってから痛い思いをして歯の治療を受けるより、定期的に歯科検診を受けて虫歯予防をしましょうというのと同じ考え方ですね。ピラティスについて、かなり理解が深まりましたー。

 

自分の身体の使い方のクセを知る

レッスン体験直後は、身体のbefore/afterをほとんど全く感じなかったのですが、その後の日常生活を送る中で、ひとつ大きな変化がありました。私は仕事でPCに向かうことが多いのですが、ピラティスレッスンで何度か「肩の力を抜いて」と言われたことを思い出して、意識を肩に向けてみるとPCに向かっている時に肩に力が入っていることに気づきました。特に、マウスで細かい位置合わせや線を描いている時に、右肩に異常に力が入っていました。

 

いつの間にか、PCに向かう時に肩に力を入れてしまうクセがついていたようです。これを続けていたら肩こりになってしまいまそうでした。自分自身で肩がこってるなあと感じることはあまりなかったのですが、実はこっていたのかもしれません。

 

無意識のうちに肩に力を入れてしまうクセはそう簡単には治りませんが、PCに向かう時に意識するようになったことで、徐々に肩の力を抜けるようになってきました。また、意識的に深く深呼吸して、余計な力を抜くことも行うようになりました。まずは、自分の身体の使い方のクセを知ることがいかに重要かを知りました。

 

正しい身体の使い方を学ぶ

高齢化を迎えるこれからの社会では特に、健康に生きるために正しい身体の使い方を誰もが身につける必要があると感じます。身体の不調を感じて医療費を使うように、マイナスのものをゼロにするのはわかりやすいお金の使い方です。けれども、自覚症状がないうちにゼロのものをマイナスにしないためにお金を使うという価値観の転換が必要なのかもしれません。

 

正しい身体の使い方を身につけることをきちんと学ぶ機会は、実は用意されてこなかったのではないでしょうか。子どもの体力低下が懸念され、身体を動かす機会提供のイベント等が行われています。誤った使い方で身体を動かすことは、身体にはむしろ悪影響を与える可能性もあることを考えると、正しい身体の使い方を学ぶ機会を提供した方が良いのではと思いました。その方法としてピラティスが最適なのかどうかは私にはわかりませんが。

 

残された課題

正しい身体の使い方を誰もが学ぶための課題として2つあげることができます。

 

一つ目の課題は、優秀な指導者をどう増やせるかです。優秀な指導者は、正しい身体の使い方の知識をもっているだけでなく、身体の動かし方を言語化して伝える高い能力をもっている必要があります。

 

優れた指導者とは何かを知ったこんなエピソードがあります。

 

娘が小学校1年生の時にピアノコンクールに出るための課題曲に取り組んでいた時のことです。スタッカート(はねるように鍵盤を叩いて音を短く表現する)の部分で、普段習っていたピアノの先生に「もっと軽く」と何度も指導されました。先生がその場で弾いてみせると、確かに娘よりももっと軽く聞こえます。けれど、その違いが何からくるのかについては言語化されませんでした。同じ課題曲の模範演奏のテープを借りて聞いてみると、やはり、その部分は娘のスタッカートとは明らかに違ってとても軽やかでした。違うことはわかるのですが、どうすればもっと軽くなるのかは私にもどうしてもわかりませんでした。

 

コンクールの前に音大の先生の特別レッスンを受けました。その時も同じくスタッカートの部分の指摘を受けましたが、音大の先生は、「もっと軽く」と言うだけでなく、「指を鍵盤から垂直に上げるのではなく、鍵盤をひっかくように指を動かして」と具体的に指の動きの違いを教えてくれました。それを聞いた娘がその場で言われたように指を動かすと、まるで別人が弾いているかのように軽い音が出て驚いたことを今もはっきりと覚えています。

 

身体の使い方は暗黙知の領域なので、それを形式知化して伝えられなければ指導にはなりません。指導者に言われた通りに身体を動かしているつもりなのに「違う」と言われても、どこをどう修正すればよいのかをわかるように伝えてもらわなければ、本人には修正できません。

 

どの領域でもそうですが、本当に優れた指導者はそれほど数多くはいません。優れた指導者をどうやって増やすか、あるいは、普通の指導者が優れた指導者と同じように指導できるように何で補うかは課題として残されています。

 

もう一つの課題は、身体を動かすレッスンをいかに楽しみに変えられるかです。どの領域でも基本を身につけるためのレッスンは同じことの繰り返しを避けては通れず、概して単調になりがちです。よほどの強いモチベーションをもった人でなければ、楽しいと思えないことは続けられません。楽しくレッスンを受けられる方法を是非とも考案してもらいたいと思います。

 

これらの課題が解決されて、誰もが正しい身体の使い方を学べるようになって、不必要な身体の不調をもつ人が減ることを期待したいと思います。

人生90年時代を幸せに生きるには

 

久しぶりに参加した女子のための「孫子の兵法」勉強会。ルノアールの貸会議室に参加者が入ってくるたびに、ドアを開けた方も先に座って迎える方も笑顔になり、そのたびに会議室が明るくなりました。

 

今回のテーマは「人生90年時代の生き方」。今回の孫子の兵法からの一節は、「戦いは正を以て合し、奇を以て勝つ」と「勢に求めて人を責めず」でした。

 

 

「合格/不合格」と「幸せ/不幸せ」

「皆さん、こう思ってませんか?」勉強会講師の田中先生はこう問いかけました。

合格 ≒ 幸せ

不合格 ≒ 不幸せ

 

折しも世間は受験シーズン真っ盛り。点数で言えばわずか1点の違いでも、明確に線引きされる結果の合格か不合格かの違いは大きい。合格すればこれで明るい未来が開けると狂喜乱舞し、不合格であればこれから先に希望はないと決まってしまったかのように落ち込むなんてこともあります。言ってみれば、合格したら幸せになれて、不合格になったら不幸せになると思っているようなものです。

 

田中先生がこのような問いかけをしたのには理由がありました。先日、20年近く前に先生が教えた生徒達と一緒に飲んで、懐かしい思い出話に花を咲かせたそうです。その生徒さん達は、今、それぞれの道で活き活きと仕事をしているそうです。ですが、実は、その生徒さん達、先生が教えていた当時に目指していた資格試験の不合格組だったそうです。

 

もうひとつ、田中先生から合格/不合格にまつわる話題が提供されました。この冬休みに中学校、高校、大学と同窓会があったそうです。中学校の同級生の多くは地元でそれぞれに家業をついだりと小さな商売をやっている人が多く、定年もなく人生の後半の勢いを感じたと田中先生は言いました。それぞれが幸せそうであり、3つの同窓会のうちで一番面白かったと話した時の田中先生は、心底楽しそうに笑っていました。一方で、大学の同窓会では、皆、世間一般でいうところの成功的な地位についているものの、社内出世が興味の中心で、生き方の幅がせまいと感じたと言いました。

 

合格、不合格、幸せ、不幸せの4つの単語をホワイトボードに書きながら、「合格したからそれで幸せになれるというものではない。不合格になっても幸せな人生を送ることもある」と田中先生は言いました。資格試験や大学受験の合否は人生の運命が決まるかのように思えたりするものですが、合否の結果とその後の人生が幸せか否かは対応していないことを表すのに十分な事例が示されて、勉強会参加者は全員、先生の言葉に大きく深くうなずきました。

 

貯金と貯人

この日の勉強会のもうひとつのテーマが「貯金とは何か?」でした。貯金とは将来のために今を我慢してお金を貯めることというのが一般的な解釈です。田中先生は、お金を貯めようとすると視野狭窄になることに気づいたそうです。将来のためと言いながら、視野狭窄になってしまうのでは将来のためにならないのではないかという疑問が、貯金とは何かについて考えるきっかけを田中先生に与えたようです。

 

ここで田中先生は2つの事例を提示しました。

 

1つ目の事例は、とある地方での朝市でのできごと。おばあさん達が集まって野菜市を開き、その地で採れたの野菜を売っていたそうです。そこで売っているものを全部買い占めできそうなくらいの値段をつけて。田中先生がおばあさんに「これで儲かるの?」と聞いたところ、「儲けるために売ってるんじゃないよ」とにこやかな笑顔で答えが返ってきたそうです。それを聞いた田中先生は、野菜を買い占めて買い物客と会話する楽しみをおばあさんから奪ってはダメだと、少しだけ野菜を買ってその場を去ったそうです。

 

初対面のおばあさんに「これで儲かるの?」と直球の言葉を投げかけ、返ってきた返答から瞬時におばあさんの楽しみを理解し、おばあさんの楽しみを奪わなかったところに田中先生のすごさが表れています。

 

2つ目の事例は、田中先生のお友達のコラボの達人カメラマンのお話。お友達のカメラマンは、着付け教室、葬儀屋さん、ヨガ教室など、次々と異業種とコラボしながら写真撮影の新しいシーンや価値を生み出していることを紹介してくれました。

 

ここで、いよいよ現在社会でおきた事例と孫子の兵法の一節が結びつきます。

戦いは正を以て合し、奇を以て勝つ

→奇襲が大事(異種とのコラボは奇襲になる)

 

勢に求めて人に責めず

→勢いが出るのはサプライズがある時、つまり奇襲の時

 

要するに、誰かと一緒に何かをやっていくことが勢につながる。人生90年時代になると定年後の人生も長い。定年後に備えて貯めるべきは、お金ではなく人間関係。それも一緒に何かをやってお金を稼げる友人。100万の貯金より一緒に100万稼げる友人の方が大事なんじゃないかというのが、この日の勉強会の問題提起でした。

 

これは結論ではありません。この勉強会では問題提起はされても結論は出しません。参加者それぞれが、提起された問題に自分自身で答えを出していく。だからこそ創造的な場なのです。

 

誰の評価軸で生きるか

この勉強会での問題提起を受けて、人生90年時代に幸せに生きるために私が見出した視点は「誰の評価軸で生きるか」でした。合格か不合格かを決めるのは自分ではありません。けれども、幸せか不幸せかを決めるのは自分です。他者の評価軸で決まる合否と自分の人生を関係づけるのは、他者の評価軸で生きることを意味します。自分の人生を他者にゆだねることは、常に他者の目を気にして、どういう評価がされるのかと戦々恐々とすることでしょう。

 

未来に投資する貯金をお金で考えることも他者の評価軸で生きることです。なぜなら、お金に換算する価値を決めているのは自分ではないからです。一緒に何かをできる友人を決めるのは自分です。お金と友人の対比では、もうひとつ決定的な違いがあります。お金は使えば減っていきますが、友人とは関わりをもっても関係が深まることはあっても薄まることはありません。さらに、友人が友人を紹介してくれて増えていくことさえあります。

 

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女性が幸せに生きられる時代?

何ごとも一括りにはできませんが、人とのコラボは女性の方が進みやすい気がします。男性はまず自分と相手の位置関係を把握しようとするらしいのですが、女性は初めて会った人でもそのバックグラウンドは気にせずに会話を始めてしまいます。そもそも、この女性だけの勉強会が始まったきっかけも、田中先生が女性限定のイベントで講師をつとめた際、イベントが始まる前に一瞬にして参加者がうちとけて話している様子に衝撃を受けたことに由来します。勉強会でもたびたび、人の関係が、ピラミッド型からネットワーク型に変化してきているという話題が出ます。

 

また、概して女性(女性的な思考の人と言った方が適切かもしれません)の方が自分の評価軸で生きている人が多い気がします。だから、眼前の損得でなく、自分が楽しいかどうかで選択しているように思います。

 

勉強会が終わった後のいつもの懇親会に、勉強会には参加できなかったけれど懇親会から参加してくれた仲間がいました。この勉強会に参加すると、いつも参加者に勢いを感じます。女性は奇襲が得意だとも感じます。人生90年時代は女性が幸せに生きられる時代なのかもしれません。

 

この日はとりわけ寒い日でした。懇親会が終わって外に出ると、身体の芯まで突き抜けそうな冷たい風が吹いていました。けれども、凍てつく空気がむしろ気持ちいいと感じるくらいに私たちの気持ちは熱くなっていました。人生90年時代、誰かの評価軸で生きたりしない、自分の人生のリーダーシップは自分で握ると誰もが思っていたに違いありません。

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21世紀型の学び

冬休みの自由研究的に電子工作を一から学びました。電子工作が少しできるようになった以上に、21世紀型の学びとはこういうものなのかと学ぶことについての学びを得られました。

 

電子工作の世界に足を踏み入れることになった理由

 

昨年末に生まれて初めて秋葉原に電子部品を買いに行きました。そういうことになったいきさつはこうです。

 

  1. 和紙を使った作品をつくるイベントを仕事で企画することになった
  2. どうすればより面白い企画になるかを考えた末、電子工作を組み合せることにした
  3. 電子工作で何がどこまでできるのかを理解するために、TechShopで開催された電子工作入門編「Arduinoで電子工作をはじめよう!」講座を受講した
  4. イベントから生まれた作品は公共の場所に期間展示することになっていたので、電子工作で作品展示を見た人数をカウントしたいと思った
  5. 受講した電子工作入門講座の講師をつとめた有山さんに人数カウントについて相談したら、自作を条件にハンズオンで教えてくれることになった
  6. 有山さんに制作に必要な部品や購入できるお店のアドバイスをもらって、部品の買い出しに行った

  

正直に告白すると、5.の相談した時、有山さんが作ってくれるんじゃないかと甘い期待を抱いていました。今にして思えば、ここが運命の分かれ目でした。有山さんが「いいよ、そんなの朝飯前だ。作ってあげるよ」と言っていたら、私が電子工作の世界に足を踏み入れることはなかったでしょう。

 

実際のところ、どれくらい難しいのかはその時点ではあまりわかっていませんでした。Arduinoという名前だけは以前から聞いたことがあったけれど、こんなに小さくて安価なコンピュータが一般的に手に入り、開発環境がフリーで公開されていて、自作できる環境がここまで整っていることは入門講座を受講して初めて知りました。入門講座では、Lチカと呼ばれるArduinoを使った電子工作のはじめの一歩を動かしました。入門講座を受講して、プログラムは書けそうかもと思ったけれど、物理が苦手だった私に回路図の配線ができるイメージはもてませんでした。

 

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           ArduinoでLEDライトを光らせるLチカ

 

でも、どうしても人数カウントはとりたかったので、「自分で作ります。わからないことがあったら教えてください」と有山さんに伝えました。どんな電子部品を買えばいいか、どこで買えるのかを有山さんに親切に教えてもらって、いざ秋葉原の秋月商店に向かいました。

 

秋月商店に行ってみてびっくりしました。せまい店内には所せましと何種類もの電子部品が並べられていました。店内で動く範囲はせまいのですが、膨大な種類の陳列商品の中からお目当ての品をどうやって探せばいいのかと途方にくれました。焦電センサーと距離センサーはなんとか自力で見つけたものの、SDカードシールドは分類カテゴリー名がわからず自力での発見をあきらめ、お店の人に聞きました。

 

もうひとつお店に行って驚いたのは、お客さんがいっぱいいたことです。その店に売っていたのは電子部品なので、基本的に自作する人しか来ないはずです。今やありとあらゆるものが商品として売られている時代に、自分でモノづくりをする人がこんなにもたくさんいるんだとお店に行って初めて知りました。しかも、私が行った時間帯のお客さんは男性ばかりでした。この手のモノづくりは男性の方が多いのは、その昔、中学校の技術家庭では、男子は技術、女子は家庭と分かれていたことを考えるとわかる気がします。

 

インターネット以後の学び

 

秋葉原で所望の電子部品は買ったものの、部品に添付されていたのは、部品の技術仕様と回路図が書かれた資料1枚だけでした。電気製品についてくる詳細なマニュアルとは大違いで、添付されていた資料は、私にとっては何の情報にもならないに等しいものでした。

 

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                 焦電センサー

 

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            焦電センサーの添付資料

 

インターネット以前であれば、先生から教えてもらうか、教科書的なものやマニュアルで学ぶかが主流でした。今回の場合、そのどちらも不可だったわけです。そこでどうしたかというと、インターネットで検索しました。本当に今はどんな情報でもネット上にあるものです。私が購入したセンサーをArduinoにつなぐ回路図もセンサーからの値を取得するプログラム例も見つかりました。検索結果の回路図の画像を参考にして自分で回路をつなぎ、プログラム例を参考にしてプログラムを書きました。そうしたら、ちゃんと動いて、センサーから値が取得できました。

 

第一弾で購入した、焦電センサー、距離センサー、SDカードシールドの3種類の電子部品をArduinoに接続して動作を確認することは、インターネット検索を駆使して、思っていたほどに難しくなくできました。

 

ここまでできたら、時刻情報も取得して、人が来たタイムスタンプつきでカウントできるようにしたいと欲が出てきました。そのためには、RTCモジュールという現在時刻を取得する電子部品が追加で必要になります。こちらもインターネットで色々調べてみると、種類が複数あるし、第一弾で購入したものとはちょっと違って、ハンダ付けが必要になりそうな感じでした。「あー、ハンダ付けまではちょっと手が出せないなあ」と思って、ここでまた有山さんにハンダ付けなしで動かせる部品を教えてほしいと相談しました。またもや有山さんが親切に部品とお店を教えてくれました。

 

年始休暇が明けてから、今度は秋葉原のaitendoというお店に電子部品を買いに行きました。ところが残念なことに、お目当ての電子部品は在庫切れでした。次の納入時期を店員さんに尋ねると、2~3週間先になるとのことでした。

 

aitendoの店員さんは全員が女性でした。しかもアジア系の外国人。店内での様子を観察すると、店員さんがもっているスキルは、日本語での会話、レジでの精算、商品IDから陳列場所を探す、部品を袋に詰めるであることがわかりました。おそらく、「Arduinoで制御できるハンダ付けなしのRTCモジュールはありますか?」と聞いても店員さんは答えられなかったのではないかと想像します。店員さんには扱っている商品の専門知識は要求しない、aitendoはそういうお店だと思えました。

 

冬休み中の時間があるうちに一通り試しておきたかった私は、「今、秋葉原のaitendoにきてるけど、教えてもらった部品が在庫切れ。他にハンダ付けなしで使えるRTCモジュールを教えてほしい」とメッセージで有山さんに連絡しました。今この場で部品を手に入れたいと思いましたが、自力でのネット検索では部品購入の知識が足りないことはお店に来る前にわかっていたので、有山さんに連絡しました。有山さんとは数ヶ月前に知り合ったばかりです。電話でなければ連絡がとれないのであれば有山さんへの連絡は断念していたと思いますが、メッセージでの連絡は相手に選択権があるので連絡しやすいというハードルの低さがありました。これもインターネット以後だからこそできたことです。幸いなことに、有山さんから返信をもらうことができて、aitendoでRTCモジュール部品を無事にゲットしました。

 

つくりながら学ぶ

 

人数をカウントをしたいと有山さんに相談した時に、「焦電センサー」か「距離センサー」を使ってみればよいと教えてもらいました。焦電センサーは、別名で「人感センサー」と呼ばれています。そうです、人がくると自動で電気がつき、いなくなると消灯する時に使われているあのセンサーです。距離センサーはその名の通り、センサーからの距離の測定値を返すものです。この2つのセンサーを教えてもらった時、人数をカウントするなら人感センサーで決まりじゃないか、距離センサーはその機能からすると用途に適していないんじゃないかと思いました。でも、何度も秋葉原に買いに行くのも面倒だったので、それぞれ1個ずつ購入しました。

 

まずは焦電センサーをArduinoにつなげて、センサーからの値をとってみました。自分で動いてセンサーの感知範囲に入ってみると、仕様にある通りセンサーから返ってくる値が大きくなりました。ここまでは予想通りでした。感知範囲内でちょっと動くと、やっぱりセンサーからの値が大きくなりました。感知範囲内から出る方向に動いても、センサーからの値が大きくなりました。人感センサーという名前と、人感センサー付きの照明の動きの経験から、感知範囲内に人がいる場合といない場合の区別をセンサーからの情報でとれると思い込んでいた私の予想は見事に裏切られました。

 

焦電センサーは、感知範囲内で物体が動いた場合と、感知範囲内で何も動きがない場合の区別をセンサー値で返すものでした。人感センサーつきの照明器具の場合にはこのセンサーが適しているわけです。

(a)感知範囲内で物体の動きを検知したら照明を点灯する

(b)感知範囲内で物体の動きを検知してから、一定時間内に感知範囲内で物体の動きの検知がなければ照明を消灯する

 

(a)によって、部屋に人が入ってくれば自動点灯でき、部屋の中で動いている限り、点灯したままになります。

(b)によって、部屋から人が出ていってから一定時間が経過すると、自動消灯できます。

 

私がやりたかったのは、ある範囲内に入ってきた人数をカウントすることだったのですが、焦電センサーでは、「感知範囲内に人が入って来た時」、「感知範囲内で人が動いた時」、「感知範囲内から人が出て行った時」のいずれの場合かを区別できません。焦電センサーは私のやりたいことに使うのは適していないと判断しました。

 

次に、距離センサーをArduinoにつなげて、センサーからの値をとってみました。距離センサーの前に立つと、センサーから返ってくる値が大きくなりました。立つ位置を距離センサーから遠ざけると、それに応じてセンサーからの値が小さくなりました。距離センサーからの距離を測れる範囲に制限があるので、その範囲を超えると、センサーから返ってくる値はほとんど同じ値に変わりました。

 

距離センサーは、距離センサーのほぼ真正面の感知範囲内で、物体がある場合と、物体がない場合の区別をセンサー値で返すことができました。距離センサーのほぼ真正面の位置という制約はつきますが、ある範囲内に入ってきた人の人数カウントができそうだという感触を得ました。

 

有山さんから聞いた時には、距離センサーなんて関係あるのかなと思っていましたが、実際に動かしてみて、距離センサーの現実世界での動きを確認して、ようやくその意味を理解しました。やっぱり、やってみないとわからないものです。

 

焦電センサーも距離センサーも、その動作確認はできましたが、何の問題もなくできたというわけではありません。PC上で書いたプログラムをArduinoに書き込もうとしたのにできなかったり、センサーからの値が何をやっても同じ値しかとれなかったりと、それなりに問題はおこりました。何しろ、特に回路図なんかは何だかわからないままに、見よう見まねでつないで動かしてみるということをやっていたのですから。

 

「つないでみる→動かしてみる→結果を見る→思った結果にならない→つなぎ直してみる→動かしてみる」を何度も繰り返しながら、思った通りに動いたところでようやく、なるほど、こういうことかと理解していきました。例えば、ArduinoのONの緑色のランプが点灯していなければ、配線がうまくできていないので、プログラムをArduinoに書き込むことはできないわけです。何度か試してみて、書き込みがうまくいった場合とうまくいかなかった場合では、このランプが点灯しているかどうかの違いがあることにようやく気づきました。これに気づいてからは、ランプの点灯をまず確認するようになりました。

 

インターネットに参考情報が載っているとはいえ、正しく設定したつもりでも動かないことはおこります。そんな時、隣りに先生がいない状況では、わからなくても試行錯誤する以外にありません。わからないからといって手をとめない。わからない状態でも手を動かすことでわかるようになるのは、プログラミングしたものは、目の前でリアルタイムに何らかのフィードバックを得られるからです。例えそれが動かないというフィードバックであってもです。

 

冬休みの間に読んでいた、鷲田清一先生著作の「おとなの背中」の中にこんな一節がありました。

子育て、介護、失業者支援など、正解というものがないままに、それでも眼をそらさずに取り組まないといけない問題は、身近なところにもいっぱいある。そのとき、わたしたちに必要なのは、わかりやすい解決ではなく、わからないものをわからないままにあれこれと吟味する、しぶとい知性というものだろう。

 

わからないものをわからないままにあれこれと吟味することに、電子工作はとてもむいていると感じました。

  

つくることで学ぶ

 

今やIoTが時代のキーワードとなって、センサーからデータを取得するといった話題には事欠きません。センサーからのデータ取得なんて専門的な知識や技術が必要なんだろうと思っていましたが、案外簡単にできることなんだとやってみてわかりました。しかもセンサー1個の値段は1000円以下です。自分で試しに作ってみるのに十分に手が出る値段です。自分でプログラムを組んでみると、どういう仕組みでセンサーと連動して動くのかも何となく理解できました。

 

今回、ある場所に来た人数をカウントをするという、ごく簡単な仕組みを自作してみてわかったことは、つくり手になることで人は賢い消費者になれるということです。技術の複雑化によって、技術が使われた仕組みはブラックボックス化してしまい、何がどうなっているのか一消費者にはわからなくなりつつあります。けれども、簡単なものでもつくってみると、何となくはわかるようになります。そうすると、動かなくなった時にも完全にお手上げになるのではなく、多分、こういうことがおこってるんじゃないかという見通しが立てられるようになります。

 

また、価格的にもどれくらいのものなのかの目安がつくようになります。自分には全くわからないものであれば、それくらいの値段がしても仕方がないのかなと思ってしまいますが、材料の原価がわかって、どうやってつくれるのかがわかれば、相手の言い値の妥当性が判断できるようにもなります。

 

そして何よりもモノをつくる喜びは実際につくることでしか学べません。この喜びを学べることの重要性は強調してもしすぎることはありません。

 

 

最も重要なのは好奇心

 

電子部品を購入して自作することをやってみて一番驚いたことは、有山さんのまさにハンズオン支援を受けて、なんとかRTCモジュールをゲットしてお店を出た後の私自身の行動でした。なんと私は小走りで秋葉原の駅に向かったのです。別に急ぐ必要なんて何もなかったのです。普通に歩いて駅に向かえばいいものを、はやる気持ちに後押しされて、自然と足を運ぶスピードが速くなっていました。

 

どうしても人数カウントの仕組みを作りたいと思っていたことに加えて、年末に電子工作に取り組んでみて、現実に何かが動くフィードバックがある面白さに目覚め、「早くRTCモジュールを試してみたい」という気持ちが私を小走りで駅に向かわせたのです。モノづくりの根底に必要なのは好奇心だとはっきりわかりました。

 

変化の激しい時代には、トライアンドエラーを素早く回すことが大事だと言われます。「まずやってみろ」という言葉があちこちで聞かれます。でも、「やってみろ」と言われたからやってみるというほど人間は単純にはできていないことは誰もが知っています。

 

私は、自分のとった行動を振り返って、気鋭の国語教師だった大村はま先生の言葉を思い出しました。

"考えなさいといった人"ではなくて、"考えるということを本気でさせた人"が一番えらい」

 

「考える」を「やってみる」に置き換えるとこうなります。

"やってみなさいといった人"ではなくて、"やってみるということを本気でさせた人"が一番えらい」

 

今回の例で言うと、やってみるということに本気になった原因がプログラミングだったわけです。プログラミングをすれば、現実にモノが動き、失敗しても何度でもやり直しができます。そのことを体験的に学んで、どんどんプログラミングをやってみたくなったのです。その上、現実世界でモノを動かせることは好奇心をそそります。

 

今、文科省でプログラミング教育の必修化についての検討がなされています。確かにIT人材が不足していると言われるけれど、全員にプログラミングは必要なのかな?と疑問に思っていました。が、今回の経験で、ようやくプログラミング教育の本質的な意義を理解できました。IT人材の不足を補うためではなく、やってみる人になるために、好奇心を育むために、プログラミング教育は必要なのです。言い換えれば、21世紀型の学びをできるのがプログラミング教育なのです。

 

なぜ話が伝わらないのか?

目の前にいる人に対してであれ、ネットの向こうにいる人に対してであれ、何かを伝えたいけれど伝わらないという経験をしたことがある人は多いのではないでしょうか。私自身も、ここしばらくずっと「どういうメカニズムで話が伝わったり伝わらなかったりするのか」という問いを抱えていました。そんな中で手にとった野矢茂樹さん著作の「哲学な日々」を読んで、なるほどそうだったのかとわかったことがあります。ここでは、相手に伝えたい内容はあることを前提として話を進めます。

 

受け手の状態を知る

誰かに何かを伝えたいと思った時に真っ先に考えるべきことは何でしょうか?私は、どんな手段で伝えるかやどんな順序で伝えるかだと思っていましたが、それは大きな大きな勘違いでした。何よりもまず考えるべきは、受け手が聞きたいという状態なのかそうでないのかということです。最も基本的でありながら忘れがちなことです。

 

私はこれまでに、顧客への紹介に同行を求められて話したり学会で発表したりということを何度か経験していました。その時は、自分が持っている情報を受け手に合わせて伝わるように考えれば良かったのです。訪問した顧客も学会の会場に来ていた聴衆も、私が持っている情報について聞きたいという状態になっていたので、とにもかくにも聞いてくれたのです。

 

最近、話を聞きたいという明確なニーズを持たない人に話をすることを何度か経験しました。受け手が聞きたいという状態かそうでないかで、当然のことながら、話の切り出し方も話の進め方も全く異なるアプローチが必要になります。いやはやこの差たるや衝撃的なものがあります。話を聞きたいという明確なニーズをもっていない相手に何かを伝えるというのは極めて高度なスキルだということを身にしみて感じました。

 

誰かに何かを伝えようとする時、相手が聞きたいという状態になっていることは、実は案外少ないのかもしれません。仕方なく教室に座っている生徒に対して話をする教師、義務的に受講している社員研修生を相手に話をする講師、子どもに助言する親、訓示を述べる上司。目の前にいても聞く状態になっていない相手にいくら話をしても、話が右から左に抜けていくなんてことも少なくないのではないでしょうか。マス広告やSNSで流れてくる文章も同様に、必ずしも聞きたいという状態の人に向かって発せられているわけではありません。

 

問いを発生させる

必ずしも受け手が聞きたいという状態になっていない状況で話を伝えなければいけない時には、一体どうすれば良いのでしょうか?その手がかりが「哲学な日々」に書かれていました。

質問を相手にさせる。これが答えである。しかも、あなたの言いたいことがその答えになるような、そういう質問を相手から引き出さねばならない。問いかけがあれば、相手はその答えに耳を傾け、問いかけがなければ、たとえ同じことを語ったとしても相手は逃げていく。問いのないところに答えだけ言っても失敗する。

 

話を始める前に伝え手と受け手の間に問いが共有されている状態をまずはつくり出さねばならないのです。言われてみれば、なるほどその通りです。クエスチョンマークが浮かんでいるからこそ聞きたいという状態になるわけです。そう言えば、本のタイトルも疑問形になっているものが多いですよね。「なぜ~なのか?」というように。そのタイトルに惹かれて手にとった時点で、著者と読者は問いを共有している状態がつくられるので、本文の内容が伝わるというわけです。

 

それにしても、自分の言いたいことが答えになるような問いを相手に発生させるなどということはどうすればできるのでしょうか。そのためには、まず、自分自身が「自分の伝えたいことはどういう問いの答えになっているのか」を自問する必要があります。伝えたい内容が答えになっている問いはひとつとは限りません。相手が関心を持ちそうな問いは何かもあわせて考えることが必要です。相手の関心がわからない場合は「どういうことだろう?」という疑問の呼び水になるキーワードを散りばめるのでもいいのかもしれません。

 

伝え手としての位置をつくる

問いを発生させる以外に話が伝わる方法があります。伝え手としての位置をつくることです。

 

講演会等で著名なゲストが講演するとなると、講演タイトルに関わらず話を聞きたいと思うことがあります。有名人に会いたいというミーハー心だけでなく、その人の話は聞いて良かったと思えるに違いないという期待がわきおこるからです。

 

こんな経験をしたことがあります。あるテーマの全体像を描くために、そのテーマに関わる人達からヒアリングして情報を集約し、整理する必要がありました。今まで一度も会ったことも話したこともない人からもヒアリングする必要があり、とりあえず電話してみました。運悪く取り込み中とのことで、折り返し電話するという返答をもらって電話を切りました。しばらく待ちましたが折り返しの電話はありません。再度の電話をかけるのもはばかられたので、書きかけの全体像の資料をメールに添付して、問い合わせの背景とヒアリングしたい旨をメールで連絡しました。メール送信後にほどなくして電話がかかってきました。

 

そんなに早くに電話がかかってくると思っていなかった私はびっくりしました。電話で会話してみてわかったのは、どこの誰かも知らない人物であっても描こうとしている全体像を見て話を聞こうと思われたようでした。

 

これとは逆にこんなことにも遭遇したことがあります。ある人が話しているのですが、誰も耳を貸そうとしません。問いの共有がない以前に、日頃の言動を鑑みて、その人が話しているという時点で話が伝わらないのです。

 

これらの事例から言えることは、話を伝えたいなら、聞くに値する人物であると認識される位置をつくる必要があるということです。

 

コミュニケーションの回路を開く

話が伝わる時と伝わらない時を図的に示すとこんな感じになるでしょうか。両者の決定的な違いは、伝え手と聞き手の間にコミュニケーションの回路が開かれているかどうかです。

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話が伝わる時は、伝え手と受け手の間で問いを共有することでコミュニケーションの回路ができ、伝え手の話はその回路を通って受け手に届きます。あるいは受け手の伝え手に対する期待でコミュニケーションの回路ができる場合もあります。

 

一方で、コミュニケーションの回路ができていない状態というのは受け手の手前に見えない壁ができているようなものです。伝え手がどんなに熱心に話をしても、話はその壁に跳ね返されてしまうので伝わりません。

 

受け手が聞くに値しない人物だと評価している時には問いの共有すらできなくなります。こうなると、コミュニケーションの回路を作ることができないので、どうやっても話は届きません。これはかなりやばい状況です。

 

話を伝えようとする時には話の内容や伝え方に目がいきがちですが、その前にコミュニケーションの回路が開かれているのか、開かれていないとしたらいかにして回路を開くかに意識を向けなければなりません。

 

コミュニケーションの回路を開くための大前提は人としてどうであるかということです。考えてみれば当たり前のことです。いかなるコミュニケーションも最終的には人と人の間に生じるものなのですから。