創造的な場から生まれるもの

 

最近、注目されている「創造的な場」。創造的な場というとそこからすごいアイデアが生まれそうなイメージをもたれる方が多いと思いますが、私自身の経験からいうと、イデア以外のものが生まれることの意味が大きいと感じていました。そんな感覚を覚えていた時に偶然に出会ったのが「創造性とは何か」。KJ法で有名な川喜田二郎先生の著書ということもあって、迷わず手にとりました。

 

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この本を読んで、全く異なる3つの場で体験してきたことの共通性とその意味するものが整理できました。3つの創造的な場の事例の紹介とともに創造的な場から生まれるものを考えてみたいと思います。

 

事例1:Motivation Makerのワークショップ

1つ目の事例は、NPO法人Motivation Makerが提供するプログラムの事例です。Motivation Makerは "未来の大人に学びのモチベーションを!" のキャッチフレーズのもと、動機づけに特化した教育プログラムを提供しています。私は数年間、サポーターとしてプログラム運営のお手伝いをしていました。

 

参加者は基本的に小学3年生から6年生の子どもです。半年間で5~6回のプログラムからなり、回によっては親子で恊働作業を行う場合もあります。一連のプログラムに規定回数以上参加すると、Motivation Makerの称号と修了証がもらえます。

 

知識の習得でも学び方の習得でもなく、学ぶ動機の獲得をプログラム提供の目的にしていて、一般的な学習塾とは一線を画するものでした。開催場所が東京大学で行われることが多かったこともあってか、福岡からわざわざ参加する参加者もいたのには驚きました。

 

プログラムの流れはこんな感じです。

モチベーションリーダーが仕事内容やそこにいたるキャリアストーリーを話す

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参加者がモチベーションリーダーの仕事をワークショップで追体験する

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参加者がワークショップのアウトプットを発表する

 ↓

モチベーションリーダーがワークショップで伝えたかったことを話す

 

ワークショップは東大のi.schoolで学ぶメソッドに準じて設計されていて、創造的にものを生み出すプロセスになっています。私がサポーターをしながら最も注目したのは、ワークショップ中の子どもたちの集中ぶりでした。活発な子もおとなしい子も驚くほどにのめりこんでいました。一緒にワークをする保護者も同様に夢中になって絵を描いたり、ものを創ったり、ものを見つけたりしているのが印象的でした。

 

そんな状況だったので、修了証をもらった子どもが、子どもスタッフとして再びプログラムに参加することが珍しくありませんでしたこのプログラムに参加して変わったという子どももいたと聞きます。さらには、このプログラムのおかげで変わったという保護者やサポーターもいました。

 

楽しいプログラムだったことは確かですが、あののめりこみ具合や、プログラムに参加しての変容ぶりを説明する理論をその当時の私はもちあわせていませんでした。

 

 

事例2:TechShopでのものづくり講座

2つめの事例は、高知県の木材の認知を高めると同時に高知県のファンをつくるために、私自身が創った場づくりの事例です。参加者を一般募集して、TechShopというDIY工房で、土佐材とデジタルファブリケーションを組み合わせて高知をPRする作品をつくってもらいました。

 

プログラムの内容と言えばこれだけですが、実際には、限られた時間で良質なアウトプットが出るためにどうすればよいか、制作素材として何を準備するか、工作機械利用のルール決めなど、一緒に場づくりを行ったメンバー間で侃侃諤諤の議論の末にようやく組み上がったプログラムでした。一番難しかったのは、参加者のクリエイティビティを発揮して実際にものを作ってもらうための自由度と制約のさじ加減でした。

 

できる限り、考えられる限りのことは準備したつもりでしたが、当日どうなるかは全くの未知数でした。結果的には、作品自体も期待を超えたものができましたし、何より参加者が昼食も抜かんとばかりの勢いで夢中でつくり続けたことに驚かされました。

 

私自身は、このプロジェクトが始まるまで木材にも工作にもそれほど興味はありませんでしたが、できれば私も参加者になって一緒につくりたいと思いながら撮影を担当していました。誰も彼もの表情がいきいきと輝いていて、「あ、この瞬間」と思うシーンが至るところで生まれて、広い会場を走り回っての撮影になりました。

 

作品がほぼ完成した頃に参加者インタビューをした際、高知県出身で都内大学に通う学生の一言がとても印象的でした。

「自分は高知県出身で、高知県は田舎だと思っていたけど、ここにきて高知県も捨てたもんじゃないなと思った」

 

当日の様子の動画はこちらです。


 

事例3:孫子女子勉強会でのわいがや

3つ目の事例は、上の2つとはかなり趣の異なるもので、東京在住時に参加していた孫子女子勉強会の事例です。基本的に女性限定のクローズドな勉強会で、孫子の兵法をテーマにしていることから、いつしか孫子女子勉強会と呼ばれるようになりました。講師は、公認会計士と一言で片づけてしまえないくらいにいくつもの顔をもつ田中靖浩先生。東京で開催されているにも関わらず、沖縄、福岡、広島、大阪からも時々参加される方がいる人気の勉強会で、かくいう私も香川県に引っ越してからも参加したことがあります。

 

勉強会では、毎回、田中先生が孫子の兵法から一節を抜き出して、その意味するところと現代社会における事例を解説付きで紹介してくれます。これだけを聞くとごく普通の勉強会ですが、ここからがまあ大変な大にぎわいになります。先生の提示した事例をフックとして、次から次へと参加者が自分の身の回りでおこった事例を場に提供し、「あれはこういう意味だったのか。それに対して自分はこういう態度をとってしまったが、本来はこうすべきだったのか」というわいがやが始まります。自分だけが経験しているのかと思ったら、あちらでもこちらでも似たような事柄がおこっていることがわかり、なぜそういう現象がおこっているのかを大局的な視点で捉える議論に発展していきます。

 

単にわいわいがやがや言い合っているだけでなく、私たちが生きている時代背景をあぶり出す恊働作業を行っている感覚に近いものがあります。自分一人の経験からだけでは見ることのできない大きな絵図をみんなで創り上げていくような感覚でもあります。私が孫子女子勉強会を創造的な場の事例として挙げる理由はここにあります。

 

この勉強会の特筆すべき点が2つあります。1つ目は、メンバーの誰もが参加することを熱望し、欠席せざるを得ないことを悔しがることです。2つ目は、共同体感覚があることです。参加者同士は勉強会で何度も顔を合わせることで少しずつお互いのバックグランドを理解していきますが、基本的には相手のことをあまりよくは知りません。勉強会でわいわいがやがやしている関係でしかないにも関わらず、不思議と仲間意識を感じるのです。

 

創造的行為

ここでは「創造性とは何か」に書かれていた内容と照らし合わせながら、3つの事例がなぜ創造的行為であったかを読み解いてみたいと思います。

 

創造的な行為であるとは次の4つの条件をできるだけ高度にそろえていることだと書かれています。 

(1)「自発性」 自発的に行えば行うほど創造的
(2)「モデルのなさ」 モデルやお手本がなければないほど創造的
(3)「切実生」 切実であればあるほど創造的
(4) 実践を伴う

 

事例1のMotivation Makerのワークショップでは、それぞれにカタチの決まっていないアウトプットを生み出すので、(2)と(4)は十分にそろっています。(1)と(3)は提供されたプログラムに沿ってワークを行うので、完全とは言えませんが、全くないとも言えません。

 

事例2のTechShopでのものづくり講座でも同様に(2)と(4)は十分にそろっています。参加者は応募制になっていたので、(1)もそろっていると言えるでしょう。(3)は少し弱いかもしれません。

 

事例3の孫子女子勉強会のわいがやでは、自由意志で参加しているので(1)はそろっています。(2)も特に決まったものがない中で進んでいくのでそろっていると言えるでしょう。(3)は3つの事例のうち一番強くあると言えるでしょう。なぜなら、参加者が自身の切実な経験をもちよって、その背後にあるものをつきとめようとしているからです。(4)も勉強会の場では話をしているだけですが、日々の生活の中で実践したことを勉強会にもちよっているので、そろっていると言えるでしょう。

 

3つの事例は、4つの条件の濃淡はあるものの、おおよそ条件をそろえているという点で共通しており、創造的行為であったと言えることがわかります。

 

 

創造的行為から生まれるもの

続いて、創造的行為から生まれるものによって、3つの事例でおこった現象を解き明かしたいと思います。「創造性とは何か」では、創造的行為の結果として生まれるものを次のように述べています。

(1)創造的行為の達成があると、その人は行ったことへの満足感や、心の高揚を得ることができる。

(2)創造的行為は、まずその対象となるものを創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目をみはるものがある。

(3)人間というものは、自分が最も創造的に行動したそこーそこで何かビューティフルなことを達成したときには、そこが第二のふるさとになる。(ふるさと化)

(4)創造的行為に繋がった人々は、また顔を合わせたがる。(同窓会化)

 

事例1のMotivation Makerのワークショップで、参加者が夢中になっていたのは、創造的行為の達成によって心情的な高揚や陶酔に向かっていたためだと説明できます。一種のフロー状態にあったとも言い換えられるでしょう。さらに、子ども、保護者、サポーターがプログラムに参加して変わったというのは、(2)にあるように主体も脱皮変容したということでしょう。そして、子どもスタッフとして継続的に関わることは、(3)ふるさと化と(4)同窓会化によって説明できます。

 

事例2のTechShopでのものづくり講座参加者の集中度合いも事例1と同様に説明ができます。また、高知県出身学生の発言は、ふるさと化による故郷の再認識から出たものと考えられます。

 

事例3の孫子女子勉強会への参加願望や共同体感覚は(4)同窓会化そのものです。単にわいわいがやがやしているから楽しいというのではなく、創造的な営みがあるからこそまた一緒に場に参加したいと思えるのだと納得しました。

 

創造的な場の創造

3つの事例と創造的行為から生まれるもので見てきたことから、現代社会の課題解決へのヒントが浮かび上がってきます。

 

現代社会の課題のひとつにコミュニティをいかにつくるかという課題があります。同窓会化はコミュニティ化とも言い換えられます。つまり、創造的行為でつながるとコミュニティ化がおきるということです。コミュニティをつくりたいならば創造的な場を創造すれば良いということになります。伊藤園さんが行っている茶ッカソンから生まれているのは伊藤園ファンコミュニティと言えるでしょう。

 

地方の切実な課題のひとつは人口減少をどう食い止めるか、特に若者の定着です。事例2の大学生のインタビュー回答とふるさと化という現象から、創造的な場をつくることで若者の意識を地域に向けることができるのではないかという仮説が立てられます

 

創造的行為の結果としての主体の自己変容は教育の目的とするところと一致します。「創造性とは何か」の中でも、川喜田先生が始めた移動大学に参加した若い人々の変化が例として挙げられています。教育の中に創造的な場をつくることで本来の教育目的が達成されることになるのではないでしょうか。ただし、この本の中にも書かれているように、自己変革を目標にするのではなく、具体的なアウトプットを作り出すことによって結果的に自分という主体の方が脱皮変容すると考える必要があります。

 

創造的な場は、必ずしも何らかの新しいアイデアやものづくりを行うためだけに必要なのでなく、現在の課題解決につながるケースがありそうです。言い換えると、創造的な場をいかにつくれるか、それが現代における大きな問いであると言えるのではないでしょうか。

先入観を解き放て

気持ちよく晴れてぽかぽか陽気になった土曜日。散歩のつもりで行った特別名勝栗林公園」で先入観を解き放たれました。 

美しさの正体は?

栗林公園は6つの池と13の築山を配した回遊式大名庭園で、千本もの松の木が植えられているそうです。紅葉にはまだ少し早く、どこを歩いても鮮やかな緑が広がっていました。一歩一景といわれるにふさわしく、飽きることなく散策を楽しめました。

 

とりわけ園内屈指のビューポイントといわれる飛来峰からの眺めは、ため息が出そうなくらいの美しさでした。誰も彼もが「きれい!」と感嘆の声をあげて写真撮影をしていました。

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他にも美しい以外の表現が思い浮かばない景色に出会いました。

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美しい景色を純粋に楽しみながら散策をすれば良かったのですが、誰も彼もに美しいと感じさせる美しさの正体は何だろう?という疑問がわきあがってきました。そこからは、美しさの正体を探す散策になりました。

 

まっすぐ伸びるが正解か?

美しさの正体を探って歩きながら、なぜかふと思い浮かんだのが湯川秀樹博士の言葉でした。

自然は曲線を創り、人間は直線を創る

すると、至るところに植えられている松の木の枝は驚くほどに曲がりくねっていることに気がつきました。けれども、それが独特の雰囲気を醸し出し、なぜか美しさを感じてしまうことにも気がつきました。

 

目標に向かって直線的に進むことを良しとしていたのはひょっとして違うのかもしれないと思いました。クネクネ曲がりながら進んだ軌跡を後から見返してみれば十分に美しく、回り道をすることは決して悪いことばかりではないのかもしれないと感じました。

 

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上に伸びるが正解か?

もうひとつ、松の木を見て気づいたのが、上に伸びているものばかりではないということでした。ある地点からは地面と並行に伸びているものや、枝が下に向かって伸びているものすらありました。

 

誰もが上だと思う方向に進むことが当たり前と思っていたけれど、それとは違う方向に進んだものも十分に美しいのではないかと思わずにはいられませんでした。

 

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周りと一緒が正解か?

栗林公園は南庭回遊コースがメジャーなようですが、時間があったので北庭回遊コースも回ってみました。すると、同じ1本の木なのにひとつの枝は真っ赤に染まり、他の枝は緑のままという紅葉の木がありました。赤く染まった枝がひと際目をひきました。

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その紅葉の木に近づいて見てみると、色づいていない枝の中に1枚だけ赤く染まった葉っぱがあることに気づきました。周囲の葉っぱのことは気にもせずに先頭をきって赤く染まった葉っぱは、すべてが紅葉した枝の赤い葉っぱの1枚とは違う精彩をはなっていました。

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周囲と一緒がいいことばかりとは限らないわけです。周囲と異なっているからこそ惹かれるものがあるわけです。

 

値段は売るためのものか?

栗林公園内にある商工奨励館にて香川漆器の実演と販売が行われていました。全国伝統工芸品展で内閣総理大臣賞受賞者の方が実演されていました。販売されていた工芸品についていた1,200,000万円の値段を見てビックリしていたら、職人さんが「この工芸品、10万でも誰も買いませんよ。賞をとった技法を使ったものなんでこの値段になってます」とおおらかに笑いました。

 

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なるほど、値段は必ずしも売るためにつけるわけではないんだなと気づきました。これだけの値段がつく工芸品を創った職人というストーリーのための値段を見ると、販売用の工芸品についた数万円の値段に納得してしまうのもうなづけます。

 

栗林公園散策の短い時間の間に、いくつもの先入観にとらわれていたことを思い知らされました。時には、いつもとは違う場所に行って、ものごとを違う角度から眺めてみることが必要だと痛感しました。やわらかな秋の陽射しを浴びながら自然の中を歩き回って身体も気持ちもリフレッシュできました。

島で癒されたわけ

癒される

「癒された」という言葉をよく目にするようになった気がするのは気のせいでしょうか。私も時々使います。少し前に訪れた女木島に行った感想を一言で言うと「癒された」です。

瀬戸内国際芸術祭のアート作品以外は、はっきり言って本当に何もない島でした。島の中を歩きましたが、信号もコンビニもありませんでした。瀬戸芸の会期中に訪れたので、芸術祭に来た人はちらほら見かけましたが、車にはほとんど出会いませんでした。車がないってこんなに静かなんだと新鮮な驚きでした。静かなおかげで鳥の声がよく聞こえました。

帰りの船の出発時間が来るまで海岸で時間を過ごしました。高松からフェリーでわずか20分の場所にあるので肉眼で高松のまちが見えます。この島から見ると、高松が大都会のように思えるのが不思議でした。

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海岸に座って、波の音に耳を傾け、寄せてはかえすを繰り返す波を飽きもせずに見ていました。この島にいると時間の流れもゆったりに感じられ、日常では閉じがちな五感が解放されていくように感じました。そして、癒されると感じたのです。

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生きることは基本的には辛い

「癒される」の意味は「辛い思いなどがやわらぎ、穏やかな気分になる」と書かれています。癒されると感じるのは何がしかのストレスを抱えているからこそでしょう。

 

これまで生きてきてわかったことは、生きるということは基本的には辛いということです。SNSに投稿されている多くは、美味しそうな料理の写真であったり、笑顔の写真であったりと、楽しいことであふれているような錯覚に陥りますが、うまくいかないことや、人間関係で嫌な思いをすることは日常茶飯事です。

 

世の中は理不尽なことだらけです。「なんで好き嫌いで評価されるのか?」だったり、「なんで成功したら俺の手柄になり、失敗したらお前のせいになるのか?」だったり。自分のいる場所がたまたま運が悪いのかと思いきや、どこもかしこも同じように理不尽なことがおこっていると知ったのは、勉強会で披露される驚くべき数々のエピソードを聞いたからです。SNSにアップされる楽しそうな様子の裏にそんなこともあるんだなあという現実を知りました。

 

これではストレスも溜まるわけです。そして、そういうストレスは気づかないうちに自分の意識を占有して、モヤモヤする気持ちを抱えながら日々を過ごすことになります。

 

自分と向き合う

このストレスから解放されるためには自分と向き合う必要があります。自分の内面に目を向けて、自分が何をストレスに感じているのか、ストレスを感じないようにするためにはどうなればいいのか、そのために自分ができることは何かと冷静に見極める必要があります。冷静になって自分と向き合うと、気持ちが整理できて解決できることも多いのですが、自分に向き合うこと自体が案外、難しいことに気づきます。

 

自分に向き合うためには、ストレスを抱えている日常を離れた場所が適しています。女木島に行って癒されたと感じたのは、刺激が何もないからこそ、自然と自分の内面に目が向けることができたからでしょう。ストレス社会を生きるためには、時々は、モノがあふれる日常から離れた中に身をおくことが必要ですが、島はそれに最適な場所でした。

 

自分らしく生きる

自分らしく生きたいというのは誰もが願うこと。実際は、理不尽なことにぶちあたったり、「これ、自分じゃなくてもいいよね」と思うことがあったりと、現実はなかなか思うようにはいかないもの。女性活躍推進が声高に叫ばれはするけれど、まだまだ働く女性が組織の中では少数派だったり、男性中心の古い慣習がはびこっていたりと、「働きながら自分らしく生きる」は特に女性にとっては切なる願い。

経営学習研究所の女性3人の理事によって企画され、11月5日(土)の午後に「女性活躍推進にロールモデルはいらない!? ー人生のリーダーシップを発揮してカラフルフロントランナーを目指すー」というイベントが開催されました。定員120名が満席になる盛況ぶりだったのは、このテーマがそれぞれの場所でモヤモヤを抱えながら生きている女性の琴線に触れたからではないでしょか。

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私はテーマもさることながら、勉強会でご一緒している板谷さんが企画したMALLの場づくりに強い関心があって参加しました。参加してわかったMALLが提供しているものを私なりに読み解いてみたいと思います。

 

ゲストスピーカーのインプット

MALLの紹介が終わった後は、多様な経験からキャリアを築いて企業の管理職として活躍する3人の女性ゲストのお話を聞くことからテーマの探求が始まりました。ゲストは、次の3つのフレームに沿って、それぞれのキャリア・ストーリーをお話されました。

  • 印象に残っている出来事
  • 私を変えた出来事
  • 今の私に繋がる出来事

今、企業の管理職になっているというプロフィールを見れば、もともと才能があったり運に恵まれたりした特別な人なんだろうなと思ってしまいがちです。3人から語られたキャリア・ストーリーは、こんな壁にぶちあたった、こんな挫折を味わった、こんな修羅場があったという、辛いエピソードの連続でした。

 

例えば、働く母親にとっての子どもの小1の壁。誰もが働く母親だった保育園から、働く母親ばかりではない小学校に環境が変わって、子どもが不登校になったエピソード。不登校まではいかなくても、何か子どもに問題がおこった時に、自分が働いていることが問題の原因かもしれないという罪の意識にさいなまれた経験をもつ母親は少なくないはずです。

 

例えば、経験のない部門への異動で途方にくれたこと。ほとんどいじめとも言える会議からの閉め出し。何のためにあるのかと疑いたくなるような理不尽な組織のヒエラルキー、などなど。

 

ゲストの具体的なエピソードの数々を聞きながら、参加者がうんうんと大きく何度もうなずいていたのは、それに類する自己の経験を引き出されたからだと想像できます。

 

エピソード自体は決して楽しいものではありませんでしたが、目の前に立ちはだかる問題から逃げずに向き合い、どう考えて、どう行動したのかを語るゲストスピーカーの背筋はぴんと伸び、目には力があり、表情はいきいきとしていました。

 

120名もの参加者とスタッフがいる会場は、ゲストスピーカーの張りのある声に集中してシーンと静まり返っていましたが、エネルギーが満ちているのが感じられました。


アカデミック・リフレクション

ゲストスピーカーのインプットの後は、 浜屋祐子さんからのアカデミック・リフレクションとして、アカデミックな研究結果を紹介してくれました。

 

1. ロールモデルの捉え方

「まるごと参照できるロールモデル」から、多様なモデルから自分で選び取り、「自分なりに構築するロールモデル」へとロールモデルの捉え方は変化してきている。

 

2. リーダーシップの発達を促す場

リーダーシップとは「共通の目標の達成に向けて個人が集団に与えるプロセス」である。リーダーシップ発達を促す機会は、仕事役割における経験のみならず、社会の中で担う様々な役割(家庭、地域、ボランティア、趣味など)の経験にも存在している。

 

ダイアローグ

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そして、いよいよ参加者が主役のダイアローグ。配られたワークシートで自己を省察する観点は、「ポジティブでいられること」「モヤモヤしていること」「ネガティブになること」の3つ。この3つの観点で言語化した後は、同じテーブルの人とのダイアローグ。

 

ダイアローグが始まると、各自の省察の時間の静けさから一転、会場中に内側からあふれ出てくる様々な思いの言葉が渦巻きました。ワイングラスを片手にリラックスして本音で語り、話し手の声に耳を傾け、時には相づちをうち、時には質問を投げかけ、それぞれが自分でも気づかないうちに何かが少しずつ変化していく時間になりました。

 

MALLの場づくり

ここではMALLの場づくりについて考察してみたいと思います。

 

ゲストスピーカーのコーナーをファシリテートしたのは板谷さん。タイトルスライドに合わせたコーディネートと思われるピンクのシャツは、場を明るい雰囲気にしてくれました。勉強会でお会いする時とは別モードのやわらかな語り口は、安心して本音を出せる場をつくり出してくれました。

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何の変哲もない大学の教室を対話の空間に変えるのに一役も二役もかったのが、ワインと上質なお菓子でした。そして、今回のテーマに沿った場のしつらえ。机の上にテープを貼った道がつくられ、ポストイットの形にもこだわりがありました。場のしつらえは、この場ではこういう気持ちになってほしいというメッセージなのだと気づきました。

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プログラムの流れは、人を動かす「Me We Now理論」にもあてはまるように感じました。
Me:  ゲストのインプットトーク(壁にぶちあたったエピソードでゲストと参加者との距離を縮める)

We:  アカデミック・リフレクション(ゲストの話と自分の共通項を見出す視点を提示し、連帯感を作り出す)

Now:  ダイアローグ(参加者自身が内省から自分のポジティブな気持ちを言語化する)

 

ゲストのインプットトークはストーリー・テリングで感情を揺さぶり、アカデミック・リフレクションでは論理で訴え、右脳と左脳の両方に働きかけるのも、インプットの質を高める仕掛けとしてとてもよくできていると思います。

 

よく言われるようにワークショップ系のイベントの最大の変数はなんといっても参加者です。私の後の席に座っていたのは福岡からの参加者でした。名古屋からの参加者もいると聞こえてきました。4,000円の会費によって、今回のテーマに切実な関心をもった人がフィルタリングされて、全国から参加者が集まりました。

 

MALLイベントが提供したもの

最後にMALLイベントが提供したものについて考察してみたいと思います。

 

ダイアローグが終了して会場から去る参加者の顔は、なんだかとても活き活きして見えました。同じテーブルになった人としかダイアローグしていないのですが、おそらくはどのテーブルでもモヤモヤやネガティブなことも語られたはずです。そして、その気持ちの原因となっている事象は、当たり前のことですが、このイベントに参加する前と後では何も変わっていません。それなのに、なぜ、イベントが終わった後の参加者に変化がおきたのでしょうか。

 

白井利明さんが書かれた「希望の心理学」の中にそのヒントがあるように思います。

私たちが絶望しても、なおも人生に何を期待できるのかではなく、反対に、人生が私たちに何を期待しているのかが問われる。

「いかに苦悩から逃れたり、死を避けるか」ではなく、「いかに苦悩や死を含めた全体の中に自分の人生の意味を見出すか」を問うべきだ。

 

参加者は、このイベントのプログラムを通じて、自分の置かれている状況に対しての意味を見出したということではないでしょうか。自分らしく生きることができるようになったとも言い換えられます。

これを図式化すると、こんな感じになるでしょうか。

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人間は意味を問う生き物であると言われます。他者との対話により視点の転換を行い、対話を経てのリフレクションにより意味を構築することによって、辛い現実をいかに乗り越えていくかを自分で考え、行動できるようになるということではないでしょうか。

 

MALLは、学びたいと願う人に学びの場を、変わりたいと願う人に変われる場の提供を目的としているそうですが、まさにその場を提供したといえるでしょう。

 

MALLは、モヤモヤを抱えながら走っている私たちにとっての給水場の役目を果たしているように感じました。MALLで給水して走り出しても、きっとまた、辛くなる時がくるでしょう。でも、次の給水地点まで走り続ければ仲間が走っていることも確認できて、給水することもできます。そう思うと走り続けられる気がするのです。

 

まだ見ぬ景色を求めて

山を登る

瀬戸内国際芸術祭の会場のひとつである本島(HONJIMA)で、笠島町並み保存地区を歩いていると「遠見山展望台まで20分」の看板がありました。展望台からは瀬戸内の島がきれいに見えるに違いないと思い、行ってみることにしました。

町並み保存地区から看板の指し示す方向にしばらく歩くと、けもの道の様相を呈してきました。高く伸びた木々が太陽の光を遮って薄暗く、薄気味悪さを感じずにはいられませんでした。瀬戸芸の作品をめぐるコースからはずれているからか私の他に歩く人はなく、やっぱり引き返そうかと思いましたが、もう少しだけと足を前に進めました。もしこれが曇りや雨の日だったら、引き返していたに違いありません。

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ある箇所では道をふさぐほどに草が生い茂り、本当にこの先に何かあるのかという疑念がわきあがってきて、やっぱり引き返そうかと何度も思いました。

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つい先日、高松市の街中にイノシシが出没したというニュースを聞いたばかりだったので、イノシシにでも遭遇したらどうしようという不安にもかられました。風で草木が揺れてかさかさと音がするたびにビクっとしました。イノシシには遭遇しませんでしたが、へびには遭遇しました。木の枝と間違わずに見つけたので踏まずにすみました。知らずに踏んでいたらと思うとぞっとします。

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この道は本当に展望台に続くのか、どこまで行けばたどり着くのかと不安が渦巻く中を歩き続きけて、ようやくゴールが見えた時には、たどりついた安堵感と果たしてどんな景色が見えるのかという期待の入り混じった気持ちでした。

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登りきって見えた景色

 山を登りきって見えた景色は期待を裏切らない美しさでした。晴れた空の下にくっきりと見える瀬戸大橋とその向こうに見える瀬戸内海に浮かぶ島々。高みにまで登ってきたからこそ見える景色です。

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方向を変えて見ると、さきほどフェリーが到着した港が一望できました。こちらも重なり合って見える島々が瀬戸内の独特の美しさを創り出しています。

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高みから見渡せる景色を見ていると、さっきまでの不安もどこかに吹き飛んでしまって、充実感に満たされました。

 

まだ見ぬ景色を見たい

しばらく景色に見とれた後、再び、来た道をもどりながら、遠見山展望台に登ることは新しいことにチャレンジする仕事と一緒だなあと感じました。

新しいことへのチャレンジは、進めていく中で何がおこるかわからない予測不能性があり、時に不安を感じることもあります。実際、スムーズにことが進むことは少なく、道をふさがれてでしまうような大きな石が目の前に現れて、もう先に進めないからと引き返したくなることも少なくありません。山に登っている時のように、途中の過程では基本的にしんどいことばかりです。

では、なぜ、引き返さずに進もうとするのかと言えば、山を登りきった先、つまりやりきった先に見えるはずのまだ見ぬ景色を見たいからです。この先に何があるのか、どうしてもそれをこの目で見てみたい一心で山を登ります。

 

新しいことにチャレンジするかどうかは、スキルを持っているかどうかの違いではありません。まだ見ぬ景色を見たいという強烈な願望をもっているかどうか。これが新しいことにチャレンジをする人かどうかの分かれ目だと思います。一度、高みからの景色を見た経験をもつと、山を登った先には今までと違う景色が見えることを知って、再び、高みを目指そうとします。

 

未知なるものへの好奇心。それが人をチャレンジへと駆り立てるのです。だから、教育において最も重要なものは好奇心を育むことなのです。

 

ほとんど成りゆきで行くことにした展望台コースでしたが、見えた景色も最高でしたが、人がチャレンジすることのメカニズムも自分なりに解き明かすことができました。

地方転勤

地方に飛ばされた?

私は今年の5月に東京から、ここ香川県高松市に転勤してきました。見知らぬ土地だった高松に住み始めてから約半年。少しずつこの地のことがわかり始めて、高松暮らしにもすっかり慣れました。

昨日、かつて同じ部署で働いていた人が東京から出張で高松にやってきました。私のことを見つけて話しかけてくれました。私が高松に転勤していたことに驚き、直接的な言葉ではなかったけれど、「お気の毒に、東京から地方に飛ばされたんですか?」というニュアンスともとれる表現をされました。

 

地方転勤というと、東京から地方に飛ばされたというイメージがあるのでしょうか。私は東京から地方に追いやられた可哀想な人に見えたのでしょうか。

一方で、いよいよ東京を離れて高松に移動する日、羽田空港からFacebookに投稿した記事には、いつもの何倍もの「いいね!」がつきました。あの「いいね!」はどういう意味だったのでしょう。地方に飛ばされて可哀想という反応ではなかった気がしますが、本当のところはわかりません。

私が地方に転勤したわけ

私は、会社から一方的に転勤を命じられたわけでもありませんし、地方に飛ばされたわけでもありません。私は自ら高松への転勤を希望しました。家族と一緒に東京で暮らしていた私が、縁もゆかりもない高松に、その時点では一度も訪れたことのなかった高松に転勤したいと申し出たので、前職場の上司は驚いていました。

 

同じチームで仕事をしていた同志が、先に高松に転勤することが決まりました。彼女の方が何倍もこの分野で経験を積んでいて、私は彼女からたくさんのことを学んでいました。これからも彼女からの学びを得ながら、チームとして成果をあげていきたいと思っていました。それが、彼女とチームとして仕事ができなくなるという事態が生じたのです。高松転勤が決まった彼女は「これからもチームとして一緒に仕事をしよう」と誘ってくれました。

 

何の迷いもなく私も転勤しようと決めた

 

というわけではありませんでした。転勤するということは、単身赴任をするということでした。初めての単身赴任、見知らぬ土地での暮らしに不安が全くなかったかと言われれば、そんなことはありません。やはりありました。

 

でも、私にとっては、どこで仕事をするかより誰と仕事をするかの方がはるかに大事なことでした。もうひとつ、私は地域をテーマに仕事をしていたので、フィールドに近いところで仕事をした方がいいかもしれないとも思いました。

 

自分の中では、新しい環境に飛び込んでみようという気持ちが徐々に固まってきました。が、もうひとつ、転勤を躊躇する大きな理由がありました。それは、娘の進学問題でした。転勤の可能性がもちあがった時点で、娘の大学入試はまだ終わっていませんでした。もしも娘が浪人することになったら、その状況で離れて暮らすという決断にはなかなか踏み切れませんでした。転勤の可能性が持ち上がっていることも入試が終わるまでは胸にしまっておきました。

国立大学入試の前に私立大学の発表があり、娘からの合格の電話に思わずうるっときてしまいました。うるっときたのは、もちろん、合格したからというだけでなく、これで心おきなく転勤できると思ったからです。「私立の発表なのに、なに泣いてんの?」と言う娘にはわからない大人の事情があったのです。

 

地方での暮らし

こうして、私は高松に転勤してきました。バスの本数が少なかったり、お店が閉まる時間が早かったりはしますが、自分の生活スタイルをこの土地に合わせればいいだけの話で、特に不便は感じていません。

昨日高松に出張に来ていたかつての同僚に、空港に向かうバスについて聞かれたので、およそ1時間に1本の割合と答えると本数の少なさに驚いていました。時刻表なんか見なくても駅に行けばすぐに電車がやってきて乗れる東京からすると、不便極まりないように思えるのでしょう。

私は高松に引っ越してきて無理に生活スタイルを変えたというより、生活スタイルを変えるいい機会になったと思っています。バスの本数が少ないので、歩いて移動する機会が増えて以前よりもはるかに健康になりました。お店が早く閉まるので、買い物をするために会社から早く帰るようになりました。日没の時間が遅かった夏場は、会社帰りに海辺まで足を伸ばして海に沈む夕陽を眺めることができました。同じように鞄を持ったまま海辺に来ている人が何人もいました。

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ちょっとあった嫌なことも海を眺めているうちに自分の中でうまく消化できたり、嬉しいことがあった時は色々なことへの感謝の念を抱きました。何も考えずに海を眺めているつもりが、自然とリフレクションの時間になっていたようです。

 

同じ風景のように思えても、日によって景色の表情は変わります。晴れた日や曇った日の違いはもちろん、雲の形や風のそよぎ具合や波の音の違いで、感じる景色は変わります。何度見ても見飽きないのはそのためです。

 

こんな豊かな時間を過ごせるとは、高松に来る前には想像していませんでした。私は今の生活スタイルが気に入っています。家族と離れて暮らしてはいますが、ネットでいつでもつながれるし、週末に時々東京に帰って家族の近況を確認する二地域居住も悪くないと思っています。尊敬する彼女と一緒のチームで仕事を続けられて、仕事を通じた成長も感じられるし、面白く仕事ができています。

高松での暮らしは気に入っていますが、地方での暮らしの現実を知って驚いたのがこのニュースです。

高松市の中心部にイノシシが現れ、男女3人が襲われて手足を噛まれるなどのけがをしました。体長およそ1メートルのメスで、現場は海に近いことから、瀬戸内海の島から泳いで渡ってきたものと見られています。 

 

鳥獣被害の話はよく耳にしていましたが、まさか街中にまで出没するとは思いませんでした。猪が島から泳いで来たというということにもびっくりです。 

 

色々なことはありますが、瀬戸内の海に癒されながら、しばらくは高松での暮らしを楽しみたいと思います。

瀬戸内国際芸術祭とは何か

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ただいま瀬戸内国際芸術祭2016の秋会期の真っ最中とあって、高松のまちの至るところでポスターや旗が目に飛び込んできます。海外から訪れる人も多いこの芸術祭とは何かを考えてみたいと思います。

 

瀬戸内国際芸術祭を因数分解する

瀬戸内国際芸術祭を因数分解する前に、3年前に慶應SDMの公開講座で聞いた古田秘馬さんの「新しい世界のコンセプトを創造する」という講演のエッセンスを紹介します。

コンセプトとアイデアを混同している人がいるが、この2つは明確に違う。コンセプトは、Whyであり、プロジェクトの本質であり、哲学であり、意味づけである。アイデアは、Howであり、具体的な企画内容であり、演出であり、仕掛けである。

コンセプトとアイデアの関係は、(条件)×(アイデア)/(コンセプト)である。

人が最初に行く理由はコンセプトにあり、人が継続して行く理由はコンテンツ(アイデア)にある。

コンセプトはプロジェクトの大義である。どこに向かうかがコンセプトであり、どの道を通るかがアイデアである。

 

瀬戸内国際芸術祭にこの定義をあてはめて因数分解してみようと思います。

条件は「瀬戸内の島々」

コンセプトは「島が活力をとりもどす」

イデアが「国際芸術祭の開催」

ということになるでしょうか。

 

国際芸術祭を開催すればアート作品を見るためにたくさんの人が訪れると考えて、アイデアだけに目を向けて、アーティストを呼んできて作品を作ってもらって芸術祭を開催しようとしてもきっと上手くいかないでしょう。

 

瀬戸内国際芸術祭で一番大切なことは、島民もアーティストと一緒になって芸術祭に参加することです。アーティストや来島者という外の力を借りて、島民の活力をとりもどすことです。それが島の活力をとりもどすということなのだと思います。

 

島の風景とアートのハーモニー

瀬戸内国際芸術祭の魅力は何といっても、島の風景とアートのハーモニー。美術館の中に展示される作品では表現しきれないものが島の風景の中で活き活きと表現されています。

例えば「カモメの駐車場」。ひとつひとつは単純でもこれだけの数のカモメが並ぶと圧巻です。海に浮かぶ島々を背景にすると本当に絵になるのです。

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それから「20世紀の回想」。船に見立てたピアノから流れる旋律は波の音と呼応するように流れて、なぜこの場所にあるのかをも物語っています。

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これらの作品は前回の瀬戸内国際芸術祭で制作された作品で、芸術祭が開催されていな期間もずっと島に残っています。芸術祭が開催されるたびに島に作品が増えてゆき、アートな島として育っていく仕掛けになっています。島の風景に溶け込むように作られた作品は、芸術祭が開催されていない期間に存在していても違和感がない島の風景になっていくというわけです。瀬戸内国際芸術祭は実によく練られた企画です。