学びたいことしか学べない

「面白そう」の直感に従うことに間違いはない。そう教えてくれたのが1月から通い始めた早稲田大学エクステンション講座「クラシック音楽全史」でした。講座自体の面白さはもちろんのこと、思わぬ方向から得られた学びがまた面白くて、書かずにはいられなくなりました。

 

 

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社会人のための必須教養講座「 クラシック音楽全史」

早稲田大学エクステンション講座に関心をもったのは、孫子女子勉強会講師の田中先生が絵画の講座を受け持っていたことからでした。スキルが身につく役立つ系でもなく、趣味として楽しむだけでもなく、そのどちらでもない学びの奥深さと面白さ孫子女子勉強会で知り始めたところに、早稲田大学エクステンション講座の冬学期に面白い講座があるという話を聞いたものですから、これは面白いことがおこるに違いないと受講を決めました。

 

 講師は音楽プロデューサーの松田亜有子先生。第2回のテーマは「印象派の登場 ドビュッシー」でした。音楽史ではベートーヴェンの死後~1900年頃までがロマン派と呼ばれ、作曲家と演奏家が独立し、ピアニストや指揮者といった専門職が生まれ、鉄道の敷設によって音楽家が移動して演奏するようになるなど、当時の音楽家をとりまく環境の変化が語られました。続いて、ドビュッシーの作品に影響を与えたものとして、北斎の浮世絵や日本の陶器、同時代を生きた詩人のポール・ヴェルレームやマラルメ印象派の絵画が紹介されました。

 

 さらには、ドビュッシーの音楽をドイツ音楽を代表するベートヴェンの音楽と対比した解説の後に偉大な作曲家の2曲を聴き比べることで、ドビュッシーベートーヴェンの音楽の違いや、ドビュッシーが音楽における印象派であることが感覚として理解できました。

 

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         フランス音楽とドイツ音楽の対比

 

 この後に聞いた亜有子先生の言葉は、理屈抜きに染み入るようにすーっと入ってきました。

音楽は言葉です。フランス語はささやくように聞こえ、ドイツ語がアクセントに特徴があるように、その違いはフランス音楽とドイツ音楽にも表れています」

 

 ドビュッシーについての話はまだまだ続きます。今では日本人である私達も、音階といえば「ドレミファソラシ」の7音階だと思っていますが、日本を含む東洋の音階は「ドレミソラ」の5音階だそうです。ジャポニスムに影響を受けたドビュッシーの曲は5音階と全音階からなり、それがクラシック音楽に新しい扉を開いたと言われているそうです。

 

 ドビュッシーといえば交響詩「海」が有名です。その楽譜の表紙には葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖裏浪」が使われていますが、ラヴェルも同じ浮世絵にインスピレーションを受けて「洋上の小舟」という楽曲をつくっているそうです。同じ浮世絵からインスピレーションを受けて作曲しても、ドビュッシーラヴェルの着眼点も曲想も違うところがなんとも興味深い限りです。

 

 亜有子先生の圧倒的な知識をもとに、ドビュッシーという一人の作曲家について、生きた時代環境と楽曲が生まれた背景が重層的に語られ、もうこれだけで美味しい料理をおなかいっぱいに食べたような気分でした。「面白そう!」という直感に従って受講を決めて良かったと心底思いました。

 

 

受講後の懇親会

2回目の講座が終わって外に出ると、寒風が吹きすさび、思わず「寒い~」と声に出さずにいられませんでした。本来ならば早く家へと足が急ぐ状況ですが、寒さに肩をすくめながら駅までの結構な距離を歩いた上に、駅の反対側まで足をのばしてお店に入ったのでした。その理由は、同じ講座を孫子女子仲間が受講していたからです。

 

 気心の知れたメンバーで駅に向かう道すがら、さきほど受けた講義についてそれぞれの口から出てくる思ったままの言葉で会話をかわしていると、寒さも心なしかやわらぐような気がして、ごく自然にお店に向かったのでした。

 

「私、大学でフランス語をとったんだけど、なんだかあわなくてドイツ語に変えたのよね。音楽は言葉というお話を聞いて、ベートーヴェンが好きな理由が今日わかったわ」

 

「作曲者の気持ちまで楽譜に書き入れてるなんて驚きました」

 

「みんな、それぞれに学んだことが違うんですね」

 

ドビュッシーラヴェルが同じ浮世絵を見ても違う楽曲をつくったように、同じ講義を受けても学ぶことは違うんですね」

 

 ドビュッシーを学んだ後はフランス料理がマッチしたのでしょうが、残念ながら入れそうなお店がなくて、講義の内容とはまるで関係のないタイ料理のお店に入りました。タイ料理をほうばりながら、店内に流れるエキゾチックなタイの音楽にひたりながら、

「この音楽は何音階なんでしょうねえ」

と、やっぱり講義の内容にちなんだ言葉が口をついて出てきました。

 

 今日の講義で聞いたドビュッシー自身の演奏はどうやって記録されていたのだろうという疑問に端を発して、音楽を記録するレコードの話になり、初めて買ったレコードやよく聞いていたレコードの話題へと展開しました。孫子女子勉強会後の懇親会では音楽の話題が出ることはあまりなかったなあと、それぞれの新しい一面が垣間見えた楽しい懇親会でした。

 

 懇親会を終えて足早に家へと向かっている時は、まさかここから先にさらに深い学びがあるとは思ってもみませんでした。

 

学びたいことしか学べない

翌日、一緒に講義を受けた孫子女子仲間の板谷さんがこの日のことをFacebook投稿していた記事を見ました。昨夜のことを思い出しながら、うんうんと頷きながら読み進めていったのですが、最後に出てきた「タイ音楽にどっぷり浸かり爆笑の学び定着会」のくだりを読んで、「定着会」の単語で視点がピタリと止まりました。

 

 そして、懇親会ではなく定着会という視点でもう一度振り返ってみると、あの日の出来事から、学びの4つの重要な要素が浮かび上がってきたのです。

 

 

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          学びのInputとInspiration

 

 1つめの要素はいうまでもなく「Input」です。私達は教室で亜有子先生から、ドビュッシーについて量的に十分なだけでなく、心が踊るような質の高いInputをいただきました。

 

 2つめの要素は「Inspiration」です。私達はInput情報をすべて平等に受け取っているわけではありません。Input情報から自分なりに選択しています。自分が学びたいと思っているものにInspirationを与えてくれる情報を選択して受け取っています。InspirationはInput情報と自分の中にある学びたいことをつなぐものですから、それが何かを自分では意識していなくても、自分の中に学びたいと思っているものを持っていなければ、どんなに質の高いInputを受けてもInspirationを得ることはできません。それゆえに学ぶこともできません。学びたいことは人それぞれに違うので、同じ講義を聞いても、選択して受け取る情報は人それぞれに違います。そう、講義からの帰り道での会話で「みんな、それぞれに学んだことが違うんですね」とあったように、それぞれに学びたいことが違ったから学んだことが違ったのです。

 

 

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            学びのOutput

 

 3つめの要素は「Output」です。講義を聞いただけで終わってしまうと、講義から自分が何を学んだのかがはっきりしないままになりがちです。講義の後に言葉を発してみると、そこには必ず自分が学んだことが反映されています。ここで重要なのが、構えて言葉を発することでなく、自然に言葉が出てくる状況であることです。今回の場合、孫子女子仲間と一緒に学び、講義後の時間をともにすることで、自然と言葉が出てくる状況がつくられました。学んだことを自然にOutputができる場になっていたのですから、それは懇親会でもあり、定着会でもあったというわけです。いい仲間とともに学ぶことがいかに大事かを気づかせてくれたのは、「定着会」という言葉でInspirationをくれた板谷さんでした。

 

 

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                       学びのReflection 

 

 4つめの要素は「Reflection」です。Reflectionすることで自分がOutputした内容から自分が学びたいことを知ることができます。Inspirationを得た時点では何かはっきりしなかったものもOutputすることで浮かび上がってきます。これがわかれば、その学びたいことをさらに自分で深く掘っていくことができます。

 

 学びの構造を4つの要素で整理してみると、学びについて見えてくることがあります。人はどんなInputを得ようと、学びたいことしか学べないのです。別の見方をすれば、どんなことからでも学びたいことは学べます。学びたいことがわからないから学べないというのは正しくありません。学びたいことは学んだ後に事後的にわかるのです。ですから、学びたいことを学ぼうという姿勢よりは、学びの4つの要素を意識しながら、面白そうな学びの場に身をおくようにすればいいのです。

 

 学びの構造が整理できたことで、次回の講義と定着会がますます楽しみになりました。

なぜ女性は自信がもてないのか

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原点にもどった2020年はじめの孫子女子勉強会で、私は長い間囚われていた呪縛から完全に解き放たれました。孫子女子勉強会の意義ここにありという会で、私にとっては忘れられない会になりました。

 

 

孫子女子勉強会、原点にもどる

2019年の孫子女子勉強会は、絵画の話をベースにしたり、ゲスト講師に来ていただいたりと、アレンジを加えた勉強会が続きました。2020年はじめの勉強会は、田中先生が「孫子女子勉強会の原点にもどる」と言われ、先生からの講義インプットの後に参加者がディスカッションするスタイルで進みました。

 

 そもそも孫子の兵法とは、勝つための原則ではなく「不敗の原則」であると、田中先生よりあらためて解説がありました。敵多数の前提で長く生き残るには負けないことを目指すべきと説く孫子の兵法は、社会でおかれた状況を鑑みて女性向きであると田中先生は直感し、そこから始まったのが孫子女子勉強会でした。

 

 今回の勉強会でとりあげたのは、孫子の兵法としてはあまりにも有名なこの二節でした。

 

彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず

 

百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり

 

 「殆うからず」とは負けないの意味であり、勝つとは言っていません。孫子は百戦して百勝することは善でなく、戦わずに負けないことが善であると説いています。

 

 今でこそ「女性活躍」という言葉が飛び交うようになりましたが、男女雇用機会均等法ができたのはわずか34年前のことです。その後も法改正が行わました。つまり、つい最近まで、女性であるというだけの理由で、女性は職場で不当な扱いを受けていたことになります。この状況の中で、いかにして負けないかを孫子の兵法から学ぼうというのがこの勉強会の趣旨です。

 

 単に女性参加者に限定して孫子の兵法について学んでいる勉強会じゃないんです。ましてや女性だけが集まって愚痴を言っている場ではありません。この日は、孫子女子勉強会のおおいなる意義を思い出させてくれた、まさに原点に返った勉強会になりました。

 

 

なぜ女性は自信がもてないのか

この日、田中先生が私たちに提供してくれた材料に、キャティ・ケイ&クレア・シップマン著の

「なぜ女は男と同じように自信をもてないのか?」

からの抜粋がありました。

 

女性に成功する能力がないわけではない。ただ私達は自分が『成功できる』ということを信じていないように見える。それが私たちを、挑戦することからさえも遠ざけてしまう。

 

十分に成熟した21世紀の女性たちは、自分が有能かどうかばかりを心配していないで、自分を信じて行動に移すことをもっと考えたほうがいい。あなたはすでに十分に有能なのだから。

 

 アメリカ政治で活躍し、皆が「きっと自信に満ちあふれているに違いない」と思っている女性が、自己不信に陥っていることを発見し、自信について書かれた著作です。

 

 この材料の提供の後、それぞれが女性だからという理由で苦しんだ経験が共有されました。中には、驚くべき不当な差別的な扱いを受けた話も聞きました。そのような状況の中でも生き残っていくための知恵を求めて集まっているのがこの勉強会のメンバーです。

 

 私も自信がもてなかった経験を思い出しました。

 

 私は子どもを産んだ後も働き続けたいと思い、自分の意思で仕事を続けました。長男が小学校に入学して、学童保育にお世話になっていた時のことです。その頃、私は兵庫県明石市に住んでいて、働く母親はまだ少数派でした。当時の学童保育所は公設民営で、場所はコミュニティセンターの一室を借りて保護者が運営していました。学童保育室にはクーラーがなく、学童保育を一番必要とする夏休みにはなかなかに厳しい状況でした。食中毒予防のため、夏休みに子どもに持たせたお弁当は冷蔵庫に入れることになっていました。

 

 長男は食欲旺盛な子で、小学生になる頃には大人の一人前をぺろりと平らげるほどよく食べていました。また、味覚にとても敏感で、味噌汁などはちょっとでも冷めると味が落ちるといって、できたての食事を好んで食べる子どもでした。そういう子であった長男が冷蔵庫で冷やされたお弁当を口にしなかったとしても不思議ではありません。おにぎりにしてみたり、手を変え品を変え色々なおかずを試してみましたが、来る日も来る日もほとんど食べ残したお弁当箱が返ってきました。

 

 私はせっかくつくったお弁当が食べられないまま返ってくることに苛立ち、子どもはお腹がすいて苛立ち、ぎくしゃくした親子関係が続きました。それならばと、パンとパック牛乳をお弁当代わりにもたせることにしました。その方が冷やしても食べやすかったらしく、それでなんとか乗り切れるかに思えました。

 

 ところが、ある日、長男が学童保育で友達と衝突することが頻繁におきていると、学童保育の指導員から呼び出されました。友達と衝突するのは親の愛情に飢えているからではないかと言われ、さらに、「やっぱりお弁当はお母さんの手作りの方がいい」とのご指摘をいただきました。

 

 手抜きをしたかったわけではなく、冷蔵庫に入れたお弁当は食べないからパンをもたせていたのに、愛情に飢えていると言われ、お弁当をつくらないことを責められ、「じゃあ一体どうすればいいのよ!」と精神的に追い詰められた状態に陥りました。下の子はまだ保育園に通っていて、自転車操業的に日々の生活を送っていた時だったので、時間的にも体力的にも精神的にも余裕がないところに、私が働いていることが諸悪の根源であるかのように思えて苦しみました。

 

 「子どもを育てながら働いて大変ね」や「小さい頃から預けられて子どもが可哀想」という言葉は、それまでにも何度も聞きました。そのたびに「大変かもしれないけれど、私も子どもも可哀想なんかじゃない」と心の中でつぶやいて、聞いた言葉は気にせずに聞き流していました。学童保育の指導員からの言葉を聞いた時は、目の前にいる子どもがSOSのサインを出しているような状態で、それまでのように聞き流してよしとはできませんでした。

 

 一体、自分が何に苦しんでいるのかを知りたくて、図書館で手がかりになりそうな本を必死で探しました。そして一冊の本に出会いました。その本の中に「子どもは母親が自分の手で育てるものという社会からの刷り込みによって、母親は子どもを預けることに罪悪感を抱いてしまう」と書かれていました。この一文で私は自分の苦しみの正体を知りました。私が苦しんでいたのは、学童保育の指導者に子どもが愛情に飢えていると言われたからでもなく、お弁当は母親の手作りがいいと言われたからでもなく、私自身が潜在的に子どもを預けることに罪悪感を感じていたからだったのです。この問題がおきるまではそれに気づかないふりをしていただけで、本当は私が働くことで子どもに犠牲を強いているのかもしれないという罪悪感をずっと抱いていたのです。

 

 私は自分の苦しみの正体が罪悪感であることを知った後に、夫に子どもを預けていることに罪悪感を感じているかを尋ねました。夫の答えは「全く感じていない」でした。私の夫は家事も育児も平等に分担してくれる人でした。出産と授乳以外は同じように子どもを育てて働いてきた夫は罪悪感を全く感じなかったのに、私は罪悪感に苦しんでいたのです。それは社会から女性に刷り込まれた呪縛のせいでした。

 

 ここで、孫子勉強会で学んだ「自信」の話にもどります。私は子どもを育てながら働くことに自信をもっていたつもりでしたが、学童保育での一件をきっかけにその自信を失ってしまいました。それはニセの自信だったからです。つまり、こういうことです。下図のように、私は働きながらでも子どもをうまく育てているという結果に対して自信をもっていたのです。ですから、それが崩れると自信をなくしてしまったわけです。

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          ニセの自信

 

 本物の自信とは、自分の外にある結果とは関係なく、自分の中にもつものなのです。ニセの自信は矢印の始点が自分の外にありますが、本物の自信は矢印の始点が自分にあるのです

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         本物の自信

 

 結果が出ているから自信をもつのではなく、自信をもつから未知のことに挑戦できるのです。私たちはずいぶん長いことニセの自信を自信だと思いこんでいたのだと知りました。ニセの自信を自信だと思い込み、それゆえに結果が出ないと自信がもてないと思い込んでいたのです。そうであれば、やってみる機会を奪われてきた女性が自信をもてないのは当然の帰結です。やってみなければ結果が出るはずがないのですから。

 

 勉強会の中でここまで深く語られたわけではありません。自信にはニセの自信と本物の自信があり、その違いは自信の起点が自分の外にあるか中にあるかだと気づいたのは、このブログを書く段になってからです。

 

 勉強会の中で、田中先生が「昨年の勉強会で、信頼とは信頼される側の問題ではなく、信頼する側の問題だと言いましたよね」と語ってくれたことが大きなヒントになりました。信頼の矢印の始点が信頼する側にあるというイメージが、自信の構図にもあてはまることに気づいたのです。

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 学童保育の一件で、私は働きながら子どもを育てることに自信をなくしました。自信をなくしたことによって、よりいっそう罪悪感に苦しみました。でも、本当は自信をなくす必要なんてなかったんです。自信をなくしたと思ったのは、ニセの自信を自信だと思いこんでいたからだったのです。子どもが成長の過程でつまずくたびに自信をなくしたりせず、自分はできると信じ、子どもを信頼すればよかったのです。20年近く経って、ようやく自分が苦しんでいた呪縛から解放されました。

 

 あれから長い年月が経って、社会人になった長男がたまにランチに誘ってきます。そういう時は仕事の相談がある時です。私は長男の話を聴いて、自分が働いてきた経験からすると自分はこう思うという話をします。それを聞いてどう考えるかどうするかの判断は長男にまかせます。この前、相談を受けた後、長男が言いました。

「仕事の相談を母親にするのはお前くらいだって友達に言われた」

自信をなくす必要なんてなかったことを長男も証明してくれたのです。

 

 

勢いを得る場、孫子女子勉強会

この日、孫子の兵法から別の一節も引用されました。

 

勢いに求めて人に責めず

 

 個々人の力でなく、集団としての勢いを求めるの意です。これを学びに適用するならば、各自で孫子の兵法を学ぶよりも集団で学ぶ方がエネルギーが高まることになります。

 

 私が今回、勉強会から大きな学びを得られたのは、田中先生からのインプットの質の高さはもちろんですが、他の参加者からの生々しい経験談を聞いて、女性であるというだけで謂れのない扱いを受けてきたという怒りのエネルギーを高めたことも大きく影響しています。そして、すっかり忘れていたつもりの自分の体験も思い出したのです。

 

 今回の勉強会で、私は長年の囚われからようやく解放されました。孫子女子勉強会はやはりリベラルアーツを学ぶ場でした。リベラルアーツを学ぶ場は、昨今の大人の学びブームで他にもあるでしょう。孫子女子勉強会を特徴づけるのは、リベラルアーツを学ぶ場にとどまらず、女性である自分たちが不当に扱われている状況への反発をエネルギーに変える場でもあることです。つまり、勢いを得る場でもあるのです。しかも怒りをそのままエネルギーに変えるのではなく、怒りを笑い飛ばしながらエネルギーに変えるのですから、その勢いたるや並大抵ではありません(笑)。

 

 孫子女子勉強会が始まってから6年以上経っても、表面的には同じことを繰り返しているように見えても、飽きることなく学び続けられるのはこういう理由があるからです。

楠木建先生の話はなぜ面白いのか

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ウィットに富んだ文章に魅せられて以来、いつかお話を聞いてみたいと思っていた楠木建先生の講演を聞きました。文章も面白いけれど、お話はそれよりもっとずっと面白く、帰宅して子どもに「面白かったわー」と興奮気味に伝えたものの、何が面白かったかと聞かれると「ウッ」とつまってしまいました。こうなると、楠木先生の話の面白さの理由を解き明かさずにはいられません。

 

 

プレゼンスタイル

講演会場には500名ほどが集まった状態で開演時間を迎えました。司会者が一橋大学大学院教授で専門は競争戦略と紹介すると、楠木先生はセーターにジーンズ、そしてスニーカーのいでたちで颯爽と舞台に現れました。

 

 第一声の「あけましておめでとうございます」が、私が初めて聞いた楠木先生の声でした。最近では、会ったことのない人でもウェブやSNSの発信でその人の言葉をあらじめ文字で読むことができるようになりました。なので、初めてライブでお会いする時にはまず声に注目します。楠木先生の声は低く、それでいてよく通る声で、その声色と響きにまず引き込まれました。思わず「わー、いい声!」と心の中でつぶやいた程です。

 

 講演の内容は、最近の楠木先生の持論である「好き嫌い」論を軸に、良し悪しと好き嫌いの違いから始まって、好き嫌いと戦略、好き嫌いと仕事、好き嫌いとキャリア、そして、スキルとセンスの違いまで。好き嫌い論で1本の軸を通しながら、「戦略」、「仕事」、「キャリア」と異なる次元の話題へあまりにも自然な流れで展開していき、一瞬たりとも飽きることなく時間を忘れて聞き入りました。

 

 スライドは、写真だけのページと大きなフォントで書かれた文字だけのページからなり、文字や囲み線は黒一色と極めてシンプル。あまりにもシンプル過ぎて、スライドのどこを見ればいいのかと迷うことは一切ありません。文字だけからなるスライドも、読むというより見るという感覚でした。

 

 楠木先生の話が文章にも増して面白かった理由は、内容ではなくプレゼンスタイルに秘密があるはずです。プレゼンの構成やスライドの作り方は、よくある「プレゼンスキル」の本に書かれている見本のようではありました。ですが、これだけだと、楠木先生の話の面白さの理由としては説得力に欠けます。なぜなら、他のプレゼンが上手い人との違いが言えないからです。楠木先生の話は、単にプレゼンが上手い人とは違う何かがありました。

 

面白さの理由はセンスにあり

楠木先生の話の面白さの理由を解く鍵は講演内容の中にありました。講演の中で、スキルとセンスの違いの話がありました。 

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 楠木先生の面白さはプレゼンスキルではないところにあるとしたら、それはセンスにあるとしかいいようがありません。すると、そのセンスはどのように表れていたのかが次なる問いになります。講演を聞いている最中に、楠木先生のプレゼンセンスは何かと考えながら聞いていたわけではありません。そんなことを考える余裕もなく、話に引き込まれていましたから。今、これを書きながら講演の様子を思い出してみると、センスが表れていた点が見えてきます。それは「テンポ」と「間」と「笑い」の3つです。

 

「テンポ」

 楠木先生の話す「テンポ」は程よく、内容がすーっと頭に入ってきます。早口で熱くまくし立てるように話す方もいますが、楠木先生の場合はゆっくりめのテンポで抑揚のない話し方が先生の声色とマッチして耳に心地よく入ってくるのです。

 

「間」

 スライドを切り替えるタイミングと話を始める「間」のとり方が絶妙です。スライドが切り替えられると、人はどうしてもスライドに目がいってしまいます。スライドの文字を読んでいると、話を聞くことに全力集中できません。スライドを切り替えた後、聴衆がスライドを理解する「間」をとった後に話が始まるので、スライドを見ることと話を聞くことのどちらもストレスなく行なえるのです。

 

「笑い」

 そして、決定的なのが「笑い」です。講演の内容はどちらかというと硬めの内容であったにも関わらず、ところどころで思わず笑ってしまう仕掛けがありました。1時間の講演を飽きることなく集中して聞き続けられたのは、ところどころに笑いの仕掛けがあり、そこで緊張をゆるめる時間をつくっていたからに違いありません。

 

 例えば、スキルの例としてロジカルシンキングを挙げ、スキルを育てるツールとして、スライド上にはロジカルシンキングの本の画像が貼られていました。「はじめて学ぶから不安だという方にはこんな本もあります」と話し、「はじめてのロジカルシンキング」のタイトルがついた本の画像がスライドに映し出されました。さらに、「学ぶ時間がないという方にはこんな本もあります」と続けて、「3分でわかるロジカルシンキング」のタイトルがついた本の画像がスライドに映し出されました。ここで会場に笑いがおこったことは言うまでもありません。舞台上の楠木先生は渋い声でいたって真面目に話しているので、それが余計に可笑しさを呼び起こしたのです。

 

スキルとセンスの違いは後味にあらわれる

 楠木先生の話の面白さはスキルではなくセンスにあるとわかりました。大学教授は難しいことは知っていても話はさほど面白くない場合が多いのですが、楠木先生にはセンスがあって話が面白いのはなぜか。この理由についても講演の中で語られた話から見えてきます。

 

 楠木先生は、ご自身の体験の中から好き嫌いを抽象化して、自分の仕事のコンセプトは「芸人」であると結論づけました。そして、芸人コンセプトの具体的な職業として、シンガーか研究者か個人タクシーを考えていたそうです。研究がしたくてなった大学教授と、自分は芸人であると認識して大学教授になった楠木先生に違いがあるのは明らかです。他人からは大学教授と見られていても、ご自身は芸人だと思っているわけですから。

 

 私は話を聞いた後に、プレゼンスキルがある人かプレゼンセンスがある人かを一発で見分けることができます。それは、聞き終わった後味に違いがあるからです。後味が「役に立った」と思った時はスキルがある人です。「この人の話を聞けて良かった」と思った時はセンスがある人です。楠木先生の講演会後に、「楠木先生の話を聞けて良かった」と思ったのは言うまでもありません。

 

 センスがある人の話を聞いた後は、またその人の話を聞きたいと思いますが、プレゼンスキルのある人の話は一度聞けば十分です。またその人の話を聞きたいと思うのは落語と同じで、まさに芸人と呼ぶにふさわしいでしょう。

 

 楠木先生のようなセンスを磨くために必要なのは、良し悪しでものごとを見るのではなく、自分の好き嫌いで見ることでしょう。そう言えば、楠木先生の第一声を聞いた時、私が思うべきだったのは「わー、いい声!」ではなく「わー、好きな声!」でした。かように私達は、好き嫌いで捉えればいいことをも良し悪しで捉えてしまうものなのです。

 

 これからは、何かを選ぶ時には、「どちらがいいか?」ではなく「どちらが好きか?」を自分に問いかけようと思います。好きなものを選び取っていった先にセンスが磨かれると思うからです。

正しい健康情報を知って賢く生き抜く

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年の瀬も押し迫った2019年12月21日(土)の午後、発信する医師団主催のイベント「このプロに聞け!健やかに生き抜く方法」に参加しました。参加者は女性の方が多く、医療情報への女性の関心の高さに少しばかり驚きました。医療関係者が登壇するイベントでしたが、難しい専門用語は少なく、和気あいあいとした和やかな雰囲気のイベントでした。医師といえば病院で白衣を着て難しい専門用語を使う堅苦しい人というイメージが大きく変わりました。健康への関心が高まる中、市民が正しい医療情報を知ることの重要性は増すばかりです。テクノロジーによって誰もが情報を発信でき、情報があふれる時代。専門家も市民も変わらなければ生き延びられない時代になったのかもしれません。

 

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イベントが始まる前の中山先生とけいゆう先生

 

発信する医師リレートーク

イベントの第一部は発信する医師リレートーク「武器としての健康情報」でした。

 

「上手な病院のかかり方」外科医 山本健人先生

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 山本先生は外科医けいゆう先生のニックネームでTwitterやブログで正しい医療情報を積極的に発信し、2019年11月末には書籍「医者が教える正しい病院のかかり方」の出版もされています。この日の話題は、書籍には書けなかったという、医師からみた困る患者さんの話題が提供されました。

 

 医師の上から目線でこんな患者は困る!という話ではなく、医師の事情を知ってもらうという内容でした。患者側から見えない医師の事情を知ることは、医師と患者のコミュニケーション改善につながります。正しい情報を知らずに思い込みのレンズで医師を見ていると、医師と患者のコミュニケーション不全により信頼関係が築けず、治療がうまくいかず、結果として患者が不利益を被ることをよく理解された話題選択でした。

 

病院の待ち時間はなぜ長い?

 予約しているのになぜこんなにも待たされるのかと疑問を感じた人は多いのではないでしょうか。自分の前の患者さんの診察が終了したのに、なかなか自分が呼ばれないことを不思議に思っている人は多いのではないでしょうか。けいゆう先生はその疑問にズバリ答えてくれました。

 

 病院の外来の担当医師は、病棟に入院している患者さんを5~10人受け持っています。担当の入院患者さんの様態が急変すると、担当医師に連絡が入ります。外来診察中に連絡が入った場合は、看護師が連絡を受け、外来患者さんが診察室を出た後に医師に伝言をします。それを受けた医師は病棟看護師に指示を出すそうです。病棟看護師と電話で会話することもあるでしょうし、場合によっては病棟に直接出向くこともあるでしょう。

 

 その他にも、依頼された診断書や紹介状を書くことにも時間をとられます。診察自体が長引く原因のひとつには、患者さんの話が長いこともあるそうです。

 

 これらを知らなければ、医師の怠慢で時間がかかっているのではと思ってしまいますが、実際には医師の怠慢である場合は10%にも満たないというのが実態だそうです。

 

医師の質問に対する患者の答えがあさっての方向にいく

 高齢の患者さんによくあるケースだそうです。医学的な観点からの質問にとっさに的確に答えることは難しいものです。けれども、特に初診の際に医師から必ず聞かれる質問に「病歴、アレルギー、飲んでいる薬」があることを知っていればそれらは前もって答えを準備しておくことができると教えてくれました。

 

 一方的に患者が悪いと決めつけるわけではなく、医師が話す内容は専門的で理解するのは難しいことも十分に承知した上で、患者側にできることを提示してくれるところに、けいゆう先生が患者視点でものごとを見ようとしていることがわかります。

 

「上手なかかりつけ医の見つけ方」森田洋之先生

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 森田先生はプライマリ・ケア指導医であり、このイベントのためだけに、なんと鹿児島からはるばるお越しくださったお医者さんでした。

 

 医師と言えば、消化器外科、循環器外科、内科、小児科など、専門がわかれているスペシャリストだと私も思っていました。もちろんそのおかげで珍しい症状に対しても診断をくだせるのだと思いますが、患者側からすると、この症状の時にはどこを受診すればよいのかわからなくさせているのも専門別にわかれているがゆえです。

 

 ところが、スペシャリストではなくゼネラリストである医師がいるそうです。小児から高齢者まで、予防、治療からお看取りまで、すべての疾患を診てくれる総合診療医と呼ばれる医師がいるそうです。家庭医療専門医、プライマリ・ケア医とも呼ばれます。そんなお医者さんがどこにいるかというのは、このページから自分の住んでいる地域を指定して調べることができます。

 

 この症状は何科を受診すべきかと悩まずに、家庭医療専門医に身体のことで心配なことがあればまず相談できるかかりつけ医になってもらっていたいものです。

 

 人によっては自宅で在宅医に診てもらいながら療養したいと思う人もいるでしょう。そんな時は、「最後まで自宅で診てくれるいいお医者さん」というムックに掲載されている在宅医の一覧が参考になるそうです。

 

 医療技術の進歩だけでなく、社会の変化にあわせて医師の制度も大きく変わっていることを知りました。

 

「社会的処方とはなにか」西智弘先生

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 西先生は緩和ケア医であり、暮らしの保健室の運営を行う一般社団法人プラスケア代表理事でもあります。

 

 西先生からは、「社会的処方」という聞き慣れないアプローチについてお話がありました。社会は富裕層と貧困層の格差が広がっていると言われますが、貧困を放っておくと富裕層の健康も壊れることがデータで示されているそうです。現代社会の病ともいえる孤立に対して、孤立した人を地域社会の資源とつなげる社会的処方を行うアプローチによって、孤立から派生して生じる病気の改善効果にも期待されています。

 

 医師の診断を受けて治療することでは解決しない病が確かにあり、人とのつながりの処方に効果があることにはうなづくことしきりでした。実運用は難しい面もあると思いますが、社会的処方が社会に根付いてほしいと思います。

 

健康情報は力

健康情報は誰にとっても関わりがある重要な生活情報です。が、今回、このイベントに参加して、知らなかったことの多さに驚きました。しかもその内容は、それを知っていれば、いつか自分が必要になった時に大きな力になるであろう内容であるのにです。健康情報を知ることは力になるのです。武器としての健康情報という第一部のタイトルはまさしくでした。

 

 健康情報に関しては知ること以外にもうひとつ大事な視点があります。それは、正しい健康情報を知ることです。巷にはエセ医療情報があふれています。こと健康情報に関しては、うっかり信じてしまうと、だまされた自分が悪かったではすみません。なぜなら、命の危険にさらされることにもなりかねないからです。

 

 この日、唯一、医師ではない登壇者が日経メディカルの記者さんでした。

「健康情報の見極め方」増谷彩さん

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 新聞、雑誌、書籍、インターネットなどあらゆるメディアに嘘の健康情報があふれています。しかも嘘の健康情報は強い表現がゆえに拡散してしまう傾向があります。健康情報を信じた人が健康被害にあったとしてもメディアは責任をとってくれません。では、どうすればいいのか。各自がヘルス・リテラシーメディア・リテラシーをつける以外に方法はないと増谷さんは言います。

 

 病気で不安になっている心理につけこんで、エビデンスのない高額な健康食品や治療法を販売する不安商法は残念ながらなくならないでしょう。そんな不安商法にだまされないためには、正しい健康情報を知る必要があります。

 

 あふれる健康情報の中から正しい健康情報を一般の人が見極めるのは困難ですが、できることはあります。医学的な正しさとはエビデンスにもとづくものという基本をおさえることです。つまり、エビデンスのない治療は選ばないこと、治療を受ける際には標準治療(科学的根拠にもとづいた世界中で一番良い治療)を選ぶことです。

 

 私達は病院にかかる必要ができた時には、いい医師にかかりたいと思うものです。食べログのお医者さん版というアイデアは何人もの人が思いつくそうですが、どれもうまくいかないそうです。なぜならば、食事は利用者の主観で評価できるけれども、医師の評価すなわち治療の適切さの評価は患者の主観で決められるものではないからだそうです。こうした医療情報の特殊性を知ることもヘルス・リテラシーのひとつです。

 

正しい健康情報を知って賢く生き抜く

ITの進歩によって健康情報がたやすく手に入るようになった反面、ヘルス・リテラシーメディア・リテラシーをつけなければいけなくなりました。ヘルス・リテラシー格差が命の長さを決めることにもなりかねません。賢く生き抜くためには、高額な治療費を支払える経済力よりも、正しい健康情報を知ることの方が重要なのです。

 

 それほど重要なヘルス・リテラシーを私たちは一体どこでどうやって身につければいいのでしょうか。それに対する答えとして、発信する医師団が生まれたのだと思います。

 

 医師が発信する情報であれば正しいと信じてもよいのかと言うと、そうではないところが正しい健康情報を知ることの難しさです。

 

 今回のイベントに登壇した医師は、どの先生も誠実で信頼できると思える人達でした。しかも人間味が感じられました。それを感じたのは、イベント第二部で、聴衆がスマホから質問した内容を外科医でありベストセラー作家でもある中山祐次郎先生が拾い上げ、それに4人の登壇者が答えるパネルディスカッションを聞いた時です。

 

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   会場参加者からの質問が映し出されたスクリーン  

 

「やっている健康法は?」

米食糖質制限、よく寝る、食事を減らしておやつを増やす

 

「もし医師になっていなかったら何になっていた?」

建築家、ミュージシャン、化学者、ミュージシャン

 

「ストレス解消法は?」

お酒、対話、料理、買い物

 

死因は何がいい?」

消化器系がん、がん、大腸がん、老衰

 

 普段なかなか医師に聞くことのない質問に対する回答を聞けたのも興味深かったのですが、その回答に付随した話を聞いていると、その人の背景や人間味が垣間見えます。そして、この医師たちが発信する内容なら信頼できると思えたのです。

 

 治療の適切さは医学的な専門知識がなければ判断できませんが、信じられる人かどうかは専門知識がなくても判断できます。プロが発信する情報を信じればよいのではなく、この人ならというプロが発信する情報に耳を傾けることが正しい健康情報を知る方法のひとつでしょう。今回のイベントのタイトル「このプロに聞け!健やかに生き抜く方法」には深い意味がこめられていたことに、今、気づきました。

Bの学びがおこるとはどういうことか

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2019年は、孫子女子勉強会に参加するたびにBの学びについて考えてきました。まるで1年のテーマとして、Bの学びが与えられていたかのようでした。2019年最後の月に出かけた「ビジネス×アート」イベントで、ようやくBの学びが腑に落ちた気がします。

 

 

ビジネス×アートのイベント

タイトルも定かではないイベントに行ったのは2019年12月3日(火)の夜のことでした。タイトルが定かでないと書いたのはこういうことです。

 

田中先生のFacebook告知:

 お笑い系アートイベント

 会計士と落語家と画商とコンサルタントによる『ビジネスマンのためのアートを楽しむ夕べ』

 

申込後のリマインダーメール:

 会計士・落語家・画商・コンサルタントが集まるイベント

 

イベント会場の貼り紙: 

 「ビジネス×アート」4人会

 

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   イベント会場の貼り紙

 

 媒体によってイベントタイトルがてんでバラバラだったのです。そんなイベントに出かけていった理由は、この登壇者で面白くないわけがないと直感したからです。

会計士: 田中靖浩(孫子女子勉強会の講師)

落語家: 立川晴の輔

画商: 山本豊津(東京画廊代表取締役社長)

コンサルタント: 御立尚資(BCG前日本代表)

 

 ここのところ「ビジネス×アート」のイベントや出版が増えていて、ビジネスとアートの関係が気になっていたことも参加した理由のひとつでした。

 

 イベントの感想を一言で言うと、会場に集まった孫子女子勉強会仲間が口を揃えて言ったように「楽しかった」に尽きます。楽しかった内容は何だったのかと聞かれると、私の力量ではとても書けないのです。パワーポイントにそって順序よく論理展開された話なら文章で表現することもできたかもしれません。けれでもこの日繰り広げられたのは、登壇者から登壇者へキーワードのバトンが受け渡され、キーワードを受け取った登壇者が自身の叡智をもとに思わぬ方向に話題を広げていく展開でした。ビジネスとアートに関わる内容であったことは確かなのですが、バックグラウンドの異なる登壇者がゆえにそれぞれに異なる切り口から語り、展開は終始発散的で、どこに向かっていくのかもわからず、オチもなくでした。その多様性と即興性が楽しかったのでしょう。

 

 イベントが終わって登壇者を交えた懇親会場に向かう途中で、孫子女子勉強会仲間に「ブログ楽しみにしてるね」と声をかけてもらいましたが、「これをブログに書くのは無理!」と即答しました。孫子女子勉強会もかなり発散的な内容ですが、それでも主たる話題提供者が田中先生一人なので、何がしかの筋道が見える感触をもてるのですが、この不思議な4人のイベントが終わった後は1本の筋道につなげられる感覚をもてず、とても書けないと思っていました。

 

 

イベント後におこったBの学び

イベントの翌日はよく晴れていて、飛行機から富士山がくっきりと見えました。

 

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     イベントの翌日に飛行機から見た富士山

 

「ああ、やっぱり富士山は美しい。何度見ても美しい。何度見てもまた見たいと思う」

心の中でそうつぶやきながら富士山に見とれていた時、ふいに昨夜のイベントのことを思い出しました。落語も富士山と同じだなあと。聞いたことのある噺でもまた聞きたくなるところが。それならば絵画も同じだなあと。見たことがあってもまた見たくなるところが。この共通性は何だろうと勝手に思考が動き始めて、繰り返しの体験を欲するものがアートなのかもしれないと自分で答えを出していました。

 

 富士山を見て落語や絵画を連想するなんて思ってもみませんでした。これまでは、富士山を見てもこんな連想は一度もおこりませんでした。きっと前夜のイベントで落語を聞き、アートの話を聞いた余韻のままに富士山を見たことで、私の中で富士山と落語と絵画がアートという共通性でつながったのでしょう。

 

 それ以降の2~3日はイベントのことをすっかり忘れていました。正確に言うと、忘れていたと思っていました。それが不思議なことに、イベントから数日経った頃、御立さんが語った

ビジネスとアートは根っこでつながっている

という言葉が意識にあがってきていることに気がつくようになりました。そうなると、ビジネスとアートがどうつながっているのか気になってしかたなくなりました。

 

 もともとビジネスとアートの関係に関心があったこともあって出かけたイベントでした。それらしきタイトルのイベントで、それらしき登壇者のイベントでしたが、イベントで語られたことの中に、ビジネスとアートの関係はこうですとはっきりと語られることはありませんでした。イベントの場で紡ぎ出される言葉に耳を傾けているうちに、それを知りたかったことすら忘れてしまっていました。それなのに、イベントが終わってからしばらく時間が経過してから、

ビジネスとアートがどうつながっているのか?

が、何となく知りたいから問いに変わっていたのです。

 

 私の中ではっきりとした問いに変わってからは、その問いがつねに意識下にあるようになりました。かといって、何かを調べたり、ずっと考え続けたりというわけではなく、カバンに入れて持ち歩いているような感じでした。そんな状態で問いに対する答えが出るとも思えませんでした。けれども、何かを見たり聞いたりした時に、無意識のうちに、これは問いに関係あるかもと思っている自分がいました。ただぼんやりとそう思う程度で、それを深く掘り下げようとはせず、時間が経つにつれて問いに関係があると思ったことも意識から遠のいていきました。

 

 ある日の朝、通勤電車で本を読んでいた時のことです。ふと本から顔をあげた時に、

問いが大事とは言われるけれど、問いの何が大事なんだろう

という疑問が唐突に降ってきました。そこから、急速に思考が回転し始めました。

 

「問いで大事なことは、『どんな問いか』よりも『自分で立てた問いか』ではないだろうか。なぜなら、自分で立てた問いは自分の内側から湧き上がってきた問いであり、どうしても知りたいという欲求に突き動かされて、その問いについて考え続けることができるから

 

 ここでとまらず、

「アートは問いでありデザインは問題解決」

という言葉を思い出して、あの富士山を見た時の感覚ともつながって、さらに思考が動いていきました。

 

「自分で立てた問いは繰り返し考え続けることができる。その理由は論理では説明できない無意識的な欲求である。

 

 富士山を見た時、富士山と落語と絵画の中に共通性を見出して、アートは繰り返しの体験を欲するものだと自分で答えを出した。その時は、繰り返しの体験を欲する理由は自分が美しいと思うことにあると暗黙のうちに考えていた。

 

 自分で立てた問いも繰り返しの体験を欲するものに加わったということは、自分で立てた問いもまたアートだということができる。そうならば、問いを考え続ける無意識的な欲求とは自分が美しいと思うことに駆動されているのではないか。これを美意識というのではないか 

 

「ビジネスにおいて大事なことは、自分で問いを立て、その問いに答えを出すことである。自ら立てた問い、アートな問いでなければ、答えを出すまで考え続けることはできない。自らの美意識がなければ問いを考え続けて答えにたどりつくことはできない。つまり、ビジネスには美意識が必要なのだ

 

 それまで回転していた思考がピタリととまり、その瞬間に、自然と目を大きく見開き、あごをあげて目線を上げ、ハッと息を大きく吸い込みました。私の中でビジネスとアートがどうつながっているかが腑に落ちた瞬間でした。この時の感覚は、例えるならば、絶景に出会った時のような感覚です。言葉が出るよりも先に体が反応してしまうあの感覚です。

 

 

Bの学びがおこるとはどういうことか

私が体験した学びはまさにBの学び(知りたいという欲求から生じる学び)でした。ビジネス×アートのイベントに参加したことが起点となった学びでしたが、そのイベントの最中に私におこったことは、いくつかのキーワードを拾ったことと、楽しんだことだけでした。イベント直後には、ブログに書けることは何もないという状態でした。けれども今から考えると、このイベントでBの学びの種が蒔かれていたのです。

 

 Bの学びの種とは、一つのテーマについてわかりやすく筋道立てて知識を教えることではなく、本質的なキーワードを散りばめて、何だかわからないけど面白いと思わせることなのかもしれません。この何だかわからないというところが肝です。わからないけれどキーワードは散りばめられているという間のとり方があるからこそ、わかりたくなるのです。

 

 異なる、それも普通では交わらないようなバックグラウンドをもつ複数人からの話を同時に聞くと、何だかわからない状態になりやすくなります。会計士と落語家と画商とコンサルタント、それぞれの視点から語るので、ビジネスとアートのことが何だかわからなくなります。それを自分の頭の中でいい感じに混ぜ合わせると、バラバラに思えた話から鮮やかなつながりが見えてきます。先月の孫子女子勉強会で学んだ印象派の筆触分割と同じ原理です。

 

 肥沃な土地に種が蒔かれれば、根を生やし、芽が出てきます。学び手がBの学びモードになっている時にBの学びの種が蒔かれれば、Bの学びが起動します。役に立つ知識を得ようとする姿勢ではなく、何だかわからないものを面白いと受け入れた後に、自分の頭で混ぜ合わせると、自分の中に問いが生まれてきます。こうなれば、勝手に思考が動き始めていきます。意識しなくても、何を見ても関係ありそうなものを自然と拾って、つながりを見つけようとします。ふとした瞬間に、「そういえば・・・」と、ずいぶん前に聞いた話や読んだ話を思い出して関連づけていきます。

 

 そして、ある日突然に、すべてのピースが揃ってピタっとはまるように、問いに対する答えが見つかります。その瞬間の快感は先に書いたように、目の前に絶景が広がるような感覚です。たとえ、その問いや答えが世界で初めて見つけられたものでなくてもいいのです。すでに誰かが言っていることだとしても、自分自身の思考を通して答えにたどりつくことは特別な意味をもちます。その思考プロセスを経たことで世界の見方が変わりますそれがBの学びの面白さなのです。

 

 問いに対する答えが見つかって終わりにするのはもったいないのです。そこでとまってしまうと、やがては、問いも答えも、答えを出すまでのプロセスで自分の中に何がおこっていたかも忘れてしまうからです。私は、ここから、もうひとつのBの学びを始めます。自分が何を学んだのか、学びのプロセスで何がおこったのかを内省し、ブログに綴ります。自分におこったことではありますが、さらりと言語化できるわけではなく、それを表すのに最もふさわしい言葉を見つけるために何度も試行錯誤するなかなかに苦しい時間を過ごします。それでも書くのは、自分の学びに意味づけをして書き記しておきたいという衝動にかられるからです。最もふさわしい言葉で残したいという美意識に駆動されているからです。つまりは、ブログを書くこともまたアートなのだと気づかされます。

 

 今回ばかりは書けないと思っていましたが、「ビジネス×アート」イベントからずいぶん時間が経ってしまいましたが、ようやくイベントを起点にしたBの学びをブログに書くことができました。このブログを書いたからといって日々の仕事にすぐに役立つことはおそらくないでしょう。けれども、絶景を見た人は再び絶景を見たいと思うように、Bの学びを経験した人は再びBの学びを経験したい欲求がわいてくるのです。来年もまたBの学びができる場に出かけて、その学びをブログに綴っていこうと思います。

絵画を通して流れを読む

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孫子女子勉強会に参加した後は、毎回、答えが得られてスッキリなどとは程遠く、言葉になる前の問いのようなものが渦巻くもやもやした感覚を抱えます。そして、渦巻いた問いのようなものを言葉にするまでが私にとっての学びの時間です。今回は孫子女子勉強会の講師である田中先生が見ているものを推測することにチャレンジしました。

 

 

フランス絵画の流れ

会計の世界史」が世に出て以来、世界の美術館をめぐり、絵画への造詣を深めている田中先生が、2019年最後の孫子女子勉強会に持ち込んでくれたテーマは「フランス絵画の歴史と人材育成」でした。

 

 フランスといえば、「芸術の都パリ」と言われるほどですから、活躍した画家が多いというイメージがあります。が、勉強会冒頭はこんなお話から始まりました。

 

「フランスが絵画での存在感を放ったのは一時期に集中しています。フランスにいた画家で天才と呼ばれたのは印象派の20人ぐらいです」

 

 フランスで後世まで残る名画が生まれたのは、ある時期に集中しておこったことに田中先生は着目しました。そして、その秘密を解き明かすべく、フランス絵画の歴史について教えてくれました。

 

 フランソワⅠ世がフランス国王となった1515年当時のフランスは、決して芸術が盛んな国ではなかったそうです。自国で絵描きを育てたいと考えたフランソワⅠ世がレオナルド・ダ・ヴィンチをイタリアからフランスに呼び寄せたことが、かの有名な「モナ・リザ」がルーヴル美術館所蔵に至った所以です。

 

 1648年に王立彫刻アカデミーが設立され、芸術家を育てる教育システムが整備されるとともに、芸術作品発表の場としてのサロンも開かれました。その後、ポンパドォール婦人を描いたフランソワ・ブーシェに代表される「ロココ」絵画が繁栄しました。

 

 1789年にはフランス市民革命が起こり、革命後の国有土地の売却によって小作農が増加しました。このことがフランソワ・ミレーが「落ち穂拾い」などの農民画を描くことにつながっています。

 

 1832年生まれのエドゥアール・マネは、王立彫刻アカデミーのサロンへの反発を「草上の昼食」「オランピア」といった作品に昇華させ、サロンへの出展に挑み続けました。マネの影響を受けて、新しい表現技法で描くモネ、ルノワール、バジールといった印象派の画家たちが現れました。

 

 

フランス絵画の流れと孫子の兵法

人間の成長プロセスの観点から見てみると、フランス絵画の流れから興味深いことが見えてきます。

 

 人間の成長プロセスは例外なく、

「模倣 → 反発 → 独創」

の3つのプロセスを踏むと言われます。日本で言えば、「守 → 破 → 離」

とも言いかえられます。

 

 フランス絵画の例で言えば、マネや印象派の画家たちもこのプロセスをたどっています。

模倣: 絵画の基本を身につける

反発: 保守的なアカデミーのサロンに反発

独創: 新しい絵画表現技法を生み出す

 

 マネや印象派の画家たちは、保守派から浴びた非難や酷評への反発をエネルギーに変えて、独創的な絵画を生み出しました。

 

 画家たちの成長プロセスを見るにとどまらず、フランス絵画の流れから孫子の兵法にもつなげるのが孫子女子勉強会たる所以です。今回の勉強会の孫子の兵法の一節はこれでした。

善く戦うものは、これを勢いに求めて、人に責めず

 

 フランス絵画の流れから学ぶべきは、勢い、すなわちエネルギーが満ちる場所に身をおくことの大切さです。つまり、怒りや落ち込む事態は決して悲観することではなく、むしろ新しいものを生み出すエネルギーに変えるチャンスと捉えることができるのです。

 

 

田中先生は絵画を通して何を見ているのか?

「美術の専門家が語るフランス絵画の話と田中先生が語る絵画の話は何が違うのか?」

これが、渦巻いていたもやもやの中から浮かび上がってきた問いでした。もっと端的に言うと、こうなります。

「絵画の専門家ではない田中先生は絵画を通して何を見ているのか?」

 

 フランス絵画の画家や表現技法についてであれば、絵画の専門家の方がより詳しく話してくれるでしょう。イタリア人であるダ・ヴィンチが描いた絵がなぜフランスのルーヴル美術館に所蔵されているのかについても話してくれるでしょう。

 

 けれども、フランソワ・ミレーが農民画を描いたことをフランス市民革命とつなげて語るのは、田中先生ならではの視点でしょう。さらに、フランスで天才と呼ばれる画家達が同時多発的に頭角を表した理由をアカデミーサロンへの反発と人間成長の3つのプロセスと関連づけて読み解くのは、田中先生の独創性に他なりません。

 

 田中先生は絵画を通して時代の流れを見ています。絵画はその時代を映す鏡とも言えます。なぜなら、その時代を象徴するもの、その時代に変化がおきたものが描かれるからです。

 

 田中先生は絵画表現技法の変化を通して画家の生き方の変化を見ています。絵画表現技法を生み出すのは画家という人間です。独創的な表現技法が生まれるのは、画家が保守派とは異なる道を進むことを選んだからです。

 

 田中先生は、絵画を通して、異国の異なる時代の流れを読むと同時に、国や時代を超えて普遍的な人間の生き方を読みとろうとしたのだと思います。

 

 これからは絵画を見る目が変わりそうです。教科書で見た有名な絵を確認するような見方ではなく、絵画を通して、この絵が描かれたのはどういう時代だったのか、この画家は絵画の歴史の中でどう位置づけられるのかなどに思いを巡らせながら見るようになるでしょう。絵画を見てもわからないではなく、絵画を見て、その国やその時代のことがもっと知りたくなることでしょう。

 

 今回から孫子女子勉強会の参加者はヒューストンだけでなく、シカゴにも広がりました。日本時間の19時から始まる勉強会は、ヒューストンやシカゴでは朝の4時から始まります。その時間からでも勉強会に参加したくなる理由は、田中先生の独創的な視点で世界の見方が変わる面白さがあるからです。

わからなさへの向き合い方

「知りたいには2種類あるのではないか?」10月の孫子女子勉強会に参加して、私の中に生まれた問いがこれでした。10月の孫子女子勉強会は勉強会仲間のスペシャルニュースに湧きました。いつものように孫子の一節をとりあげることもなく、発散的な話題の展開で終わりました。だからといって、楽しかっただけに終わらず、何がしかの問いが生まれるのが孫子女子勉強会たる所以です。

 

 

孫子女子勉強会のスペシャルニュース

スペシャルニュースの1つ目は、11月発売予定の田中先生の新刊でした。著作多数の田中先生の新刊が出ること自体は驚くべきことではありませんが、初めての翻訳本でしかも絵本という発表に会場にどよめきがおこりました。

 

 しかも、なんとなんと勉強会仲間でヒューストン赴任中の大加瀬さんとの共同翻訳だったのです。それを聞いた私達は驚くやら嬉しいやら。それを聞いた途端に会場がぱあっと明るい雰囲気になり、大きな拍手に包まれました。

 

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         共同翻訳者の大加瀬さん

 

 今回もヒューストンからZoomで参加していた大加瀬さんから、初めての翻訳に挑戦した際のエピソードとともに、翻訳するひとつの言葉を選ぶことにどれだけの重さがあったかが語られました。勉強会仲間の思いもかけない活躍ぶりと、しかもそれがこの勉強会での田中先生と大加瀬さんの出会いがきっかけとなったことは、本当に嬉しいニュースでした。

 

 2つ目のスペシャルニュースは、男性でありながら女子限定の孫子女子勉強会の参加者として公認されている越後屋さんの大きなキャリアチェンジのお知らせでした。こちらのニュースにももちろん大きなどよめきと拍手がわきおこりました。田中先生からそのニュースの紹介とともに、こんなコメントがありました。

「2人で会う時にはこの孫子女子勉強会のこともよく話題になります。この勉強会に参加してよかったと。きっとこの勉強会に参加したことも今回の大きな決断に影響していると思います」

 

 

 田中先生と越後屋さんの出会いは田中先生の講演会。講演後に越後屋さんがナイスな質問をしたことから、田中先生との交流が始まったそうです。

 

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     田中先生とキャリアチェンジした越後屋さん

 

 いつもは後ろの席に座って、ジャストなタイミングでお茶やお菓子の準備をして、私達をもてなしてくださる越後屋さんが、田中先生の横に座って、孫子女子勉強会以外の勉強会に参加して感じたことを話してくれました。お話を聞いた勉強会は、孫子女子勉強会とは真逆と言ってもいいほどに楽しくなさげでした。楽しくないものは当然続かず、自然消滅してしまったとのことです。楽しくない勉強会に自主的に集まって参加した人たちは、一体何を知りたかったのだろうと私の中に疑問が芽生えました。

 

 

知りたいの意味

スペシャルニュースの共有がなされた後は、田中先生からの話題提供がありましたが、いつものように孫子の一節をテーマにとりあげての内容ではありませんでした。

 

 プロジェクタの画面に映し出された1枚のスライドには数字の列が並び、列の最後には□が書かれていました。数字の列はある一定の法則に従っているように見えました。見た瞬間に高校数学で習った数列を想起しました。田中先生から、問いかけがありました。

「この□に入るのは何だと思いますか?」

 

 高校数学の数列の問題だとしたら、そこに入る数字には1つの正解があります。が、この場合の答えは「わからない」でした。これまでの経験則では次はこうなるであろうと予測できたことがこれからも起こるとは限らない、つまり未来は誰にもわからないという例として、この数字の列が示されたのでした。

 

 これまでに経験したことのない大雨が降り、日本に甚大な被害をもたらした台風19号が過ぎ去った直後ということも手伝って、私達は誰もが「これから先のことはわからない。世の中には答えがわからないことがある」と深く共感したものでした。

 

 この同じ話を田中先生がとある講演会でしたところ、講演会終了後に、こんな質問をした人がいたそうです。

「ところであの□に入るものの答えは何ですか?」

 

 この話を聞いて、「世の中には答えがわからないことがあるという話を聞いたにも関わらず、答えを知りたいというのは何を意味しているのだろう」と、私の関心はさらに深みへと導かれたのです。

 

 私達が勉強会に参加している動機のひとつに、確かに「知りたい」ということがあります。けれども、それは、講演後に田中先生に質問した人の知りたいとは明らかに違う気がしました。そして、私の中に、「知りたいには2種類あるのではないか?」という問いが生まれたのです。それに対する答えはすぐに見つかるものではありませんでした。この問いの答えのわからなさを抱えたままに日常の出来事を眺めているうちに、わからなさへの向き合い方に鍵があるのではないかと考えるようになりました。

 

 

わからなさへの向き合い方

わからないことに遭遇した時に取り得る対応方法は2つです。

1.わからなさを抱えながら過ごす

2.とりあえず決めて前に進む

 

 1.  は、今すぐに何らかのアクションが必要でない場合の対応方法です。何かのアクションがすぐに必要でなく、わからないなら、そのわからなさを抱えるしかありません。人間は、結果のいい悪いに関わらず白黒はっきりさせたいという習性をもつ生き物です。わからないことにストレスを感じる生き物です。ですから、わからなさを抱えて過ごすには胆力が必要になります。

 

 「ところであの□に入るものの答えは何ですか?」と質問した人は、わからなさのストレスに耐えられなかったのではないでしょうか。□に入るものを知ったからといって、その人の生活に影響があるとは思えません。わからないものをわからないものとして抱えることができず、どうしても答えを知りたいという欲求に抗えずに質問をしたのではないでしょうか。

 

 わからなさを抱えるというのは確かにストレスフルではありますが、わからなさ、言い換えれば、ある種の問いを抱えることによって見えてくるものがあるのも事実です。今回の私がまさにそうでした。「知りたいには2種類あるのでは?」という問いを抱えて過ごさなければ、このブログは書けませんでした。

 

 2.は、わからないことだらけでも、今すぐに何らかのアクションが必要な場合の対応方法です。何はともあれアクションが必要なわけですから、わからないなりにも、とりあえず決めること、決めたことに従って前に進むことが必要です。わからない中で決めることも、そうやって決めたことに従って進むことも、リスクと言えばリスクには違いありません。けれども、わからないからといって立ち止まってしまうというのでは、アクションが必要な場面においては、もっと高いリスクになります。

 

 とりあえず進んでみれば、それが良かったのか悪かったのかが見えてきます。進む前には見えなかった新たな選択肢が見えてくることもあります。つまり、進む前にはわからなかったことがわかるようになるわけです。わかるということは、アクションする前ではなく、アクションした後におこるものなのです。

 

 初めての翻訳にチャレンジした大加瀬さんも、わからなさを抱えながらの翻訳作業だったに違いありません。わからなさを抱えながらも翻訳作業を進めたことで、翻訳とは言葉を単に他国語の対応単語に置き換えることではないということがわかったに違いありません。

 

 現代はVUCAの時代と言われます。わからないことだらけの時代を私達は生きているわけです。わからなさへの向き合い方が問われる時代を生きています。それに対する心構えを整理できたのは大きな収穫でした。私が孫子女子勉強会に参加して知りたいのは、世界の整理の仕方なのだということもわかりました。こんな風に思いもよらない方向への学びを得られるのが、孫子女子勉強会の面白さなのです。